すゞめ

Open App

『キンモクセイ』

 艶のある緑の葉の隙間から、小さな橙色が秋の到来を告げる。
 道を歩けばいたるところでキンモクセイの強くて甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 秋の代表格ともいえるキンモクセイの花弁は、気まぐれに気候を弄ぶ秋と昼夜問わずに戯れる。
 連日の雨。
 冷気を運ぶようになった秋風。
 瑞々しく咲かせていた鮮やかなキンモクセイの花は、遊び疲れて地に落ちた。
 吹き溜まりとなって道の隅に追いやられた小さな花弁たちは、乾燥してくすんでいく。
 それでもなお、キンモクセイは暗く冷たいアスファルトに彩りを与えた。

 キンモクセイの芳醇な残り香をほのかに纏いながら、俺は帰路に着く。
 短命な秋の陽気は、早くも冬の準備を進めていた。
 厚手のトレンチコートでは心許なく、鼻っ柱に冷えが集中する。
 コートのポケットに両手を深く突っ込んで冷えを凌いだ。

   *

 帰宅後。

 最後の抵抗と言わんばかりに、彼女が濁り湯の入浴剤を浴槽に入れた。
 浴槽に張った透明のお湯が、淡い橙色に変化していく。
 その瞬間、金木犀の香りが浴室に甘く広がっていった。
 俯いて俺と視線を合わせぬまま、彼女は小さな体をさらに小さくして、湯船に浸かる。

 そろそろ慣れてくれてもいいのに。

 背を向けて座る、裸眼のせいで輪郭のぼやけた彼女の細い頸をぼんやりと見つめた。

 彼女と結婚して3年。
 結婚してしばらく経ったあと、俺は意図的に彼女の聖域である風呂に手を出した。
 時々、本当にごく稀に、一緒に風呂に入ることを許してくれた彼女である。

 最初は3、4ヶ月に1度から、ゆったりとスタートした。
 次に2、3ヶ月。
 少しずつ間隔を短くして、ようやく月イチまで漕ぎつけた。
 本当は週イチ、もしくは隔週にまで持ち込みたいが彼女のキャパ的に限界である。

 今日も彼女は落ち着きなくタプタプとお湯を揺らしたあと、腰を上げた。

「先に出るね……」
「え、ダメですよ?」

 立ち上がる彼女の腕を引っ張り、肩まで浸からせる。

「ちゃんと温まってください」

 腕を腹に回して逃げ道を塞ぐと、彼女は往生際悪く、少しでも距離を空けようとした。

「うぅ」

 逃げられると追いかけたくなるのが俺である。
 足も使ってしがみつけば、彼女はますます体をこわばらせてカチコチになってしまった。

「そんなに恥ずかしがらなくても、俺、ほとんど見えませんよ?」
「れーじくんはそうかもしれない、けど……」

 ベッドとは違って風呂場では眼鏡をかけられないのだ。
 もちろん、一糸纏わぬ彼女の姿は存在だけで美しく俺を魅了するが、残念ながら解像度は低い。

「わ、私、が……見えちゃう、から」
「いつも見てるじゃないですか」
「電気ついてるし」
「消したら怖いでしょう。危ないし」
「違くて。一緒に入るって選択をやめてほしいの」

 不満と羞恥がない混ぜになった声音で文句を言う彼女の勢いはない。

「そんな意地悪言わないでください」
「どっちが……」

 俺に対して、まだそんな初々しい反応をしてくれるというのは、悪い気はしない。

「そもそも、れーじくんが……どんどんきれいになるせいじゃん」
「はあ?」

 なんだそれは。
 きれいになっているのは彼女のほうである。

 彼女は今、少女から大人の女性へ切り替わる移行期間を迎えていた。
 女性として垢抜けて洗練されたその姿は、何度でも俺を恋に落としていく。
 少女特有の幼さや若々しさも折り重なり、艶やかに輝く彼女は最高だ。

 俺は、そんな最高で最強の彼女の隣に立つ努力をしているだけにすぎない。

「慣れるとか、無理なの……」

 腹に乗せていた手の上に、彼女の指が乗せられた。
 指を絡め取れば小さく震えた肩口から、瑠璃色の潤んだ瞳が振り返る。

「だ、だから、恥ずかしさとかどうでもよくなるように……、ちゃんと、なし崩して……」

 は?

 か細い声音も、浴室では無駄に艶を含ませてよく響いた。

「……その……、れーじくんなら、できるでしょ?」
「……」

 う、わ。
 マジかー……。

 据え膳とも受け取れるとんでもない要求に目眩がする。
 湯当たりしそうなくらい、体を巡る血流の勢いが増した。
 激しくなる鼓動をごまかすために、彼女の柔らかな肩を甘噛みする。

「なし崩せば、毎日一緒に入ってもいいんですか?」
「違うっ! そこまでチョロくねえよ!」
「いえ。あなたのチョロさはだいぶヤバいですよ?」
「はああぁっ!? ヤバいってなにっ!? ふざけんなっ!」

 バシャンッ!
 照れギレした彼女が腕を振り解いて、橙色に濁ったお湯を俺の顔面にぶっかけてきやがった。
 ドタドタと大きな足音を立てながら、風呂場から出ていってしまう。
 甘ったるい金木犀の香りを浴室に残したまま、俺も彼女を追いかけるのだった。

11/5/2025, 9:09:27 AM