推しについての贖罪
私の「推し」へ
私には最近、たまに見ている配信者さんがいる。
けれど、自分の中にある気持ちを相手に説明するのがめんどくさくて、とりあえずその方のことを形式上“推し”と呼んでいる。
世の中の人が言う「推し」なんて、「恋」と同じくらい多様なもので、必ず共通してることは“ポジティブな意味で興味を持ってる人”くらいの定義でしかないと思う。そして私の感情も、概ねその例に漏れずといったところだ。
だから、別に言葉の使い方が間違っているとは思っていないし、実際そのように表している。
それでも私は、この気持ちを仮にも「推し」と称してしまったことを謝りたい。
もし、「推しと呼んでいる人の配信を見る時間が、他の人の配信を見る時間よりずっと短い」なんて言ったら、多分世間的には珍しい方に分類されるだろう。
なにせ、視聴時間の“絶対値”が少ないんじゃなく、”相対値“が少ないんだから。
今この文章を書いている時すら、バックグラウンドでは別の人の歌枠アーカイブを流している。
仮に難癖をつけられたとしても、返す言葉がない。
そのために行動しているとしか思えないくらいだ。
そもそも、私は配信コンテンツを見るのが得意ではない。アーカイブすら、ほとんどまともに見ることはない。大抵長時間な上に、リアタイではスキップもできず、この後何が起こるかもわからないまま聞かないといけないなんて、正直苦痛で仕方ない。
作業中に流すとしても、展開が決まっている動画か音楽としての形式でないと気が散ってしまう。
......と、ここまでは自分の感じていた後ろめたさを言語化してみた。改めて、意味がわからないと思う。
それでもなぜ私がその人を「推し」と称したのか。
普段ならほとんど買わないグッズを買ってみたり、
ボイスコンテンツを買ってみたり、
逆にいつもなら迷わずに描けるファンアートが簡単に描けなくなったり、
自分では見ていない配信の切り抜き動画を気軽に視聴できなくなったりと、
普段よく見ている人たちのコンテンツを消費しているときとは、少しだけ違う感覚になる。
ただ、ひとつだけ大きな違いがある。
その人の言葉には、特別に救われたのだ。
自分自身の存在を無条件に肯定するための言葉。
言葉の内容自体は決して目新しいものではない。
私に響いたのは、おそらくその人の人間性を背景として、その文脈の中でやけにその言葉が真実味を帯びて自分の中に落ちてきたというだけのことだ。
けれど、後ろめたさの理由を振り返るたびに思う。私の中で特別なのはあくまでその瞬間の話であって、その人の存在自身を大事にしているわけじゃない。
きっとその人は、自分がそういう形で人の心を動かせたことをなんとなく嬉しく思うような人だから、なおさらこれで謝ることは可笑しいと思う。
それでも、やっぱり謝りたい。
「私、あなたの存在はどうでもいいの。
あなたがくれた気持ちが本当にありがたかった。
それで、その気持ちを自分の中に留めておくためには、あなたの存在を借りると都合が良かった。
自分の存在を受け入れるためのお守りとして、いつでも思い出せる形がある方が都合が良かった。
ただそれだけのために、あなたを『推し』と呼んでるの。」
もしかしたら、世の中みんなそんなもんかもしれない。
けれど私から見れば、そうは思えない。
だからわたしは、自分の推しへの感謝を贖罪をここに記す。
「ありがとう、ごめんね」
12/8/2024, 10:49:30 AM