雨燈宿

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 君はいつだって優しかった。
 友人の相談に乗るとき、迷子の子供が泣いているとき、道で誰かが困っているとき、そして――俺と話すとき、君はいつも優しかった。
 知らない人が行方不明になったというニュースを見ると苦しそうな顔をした。有名人のSNSへの誹謗中朝にいちいち心を痛めていた。自分のことなんてどうでも良さそうな顔をしているのに、他人の悪口を聞くたびに怒って、それを言った奴らの元へ向かっていく。誰のために自分の人生を使うのが好きな人だった。
「なんで、そんなに優しくなれるの」
 そう聞いてみたことがある。君は少し困ったような顔をした後、
「だって、それしか取り柄がないもの」
と笑っていた。
 俺から見れば全然そんなことはなかった。笑顔が綺麗で、誰とでも仲良くなれて、強く、美しく、それでいて明るい魂を持っていた。どんな偉人よりも素晴らしい人だと、俺はいつも思っている。
 君は、俺の隣で寝息を立てている。いつも誰かのために向けられる心が、このときだけは君自身のことを見る。できるならいつもそうであれと願うが、やはりそうあれない君のことが好きなのだと、自分の身勝手さに苦笑した。時計の針はちょうど0時を回ったところだ。
 君にいらない気苦労を強いるこの世界が嫌いだ。君に全部を押し付けて、都合の良い使い方をしている全員が嫌いだ。君が君自身を大切にする心を忘れさせる太陽が嫌いだ。君のことを傷つける全部のことが、嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ!
 もし君に何かがあったらどうしようかといつも考える。君は優しいから、いつか自分の命まで賭けて何かを助けようとするんじゃなかろうか。そしたら俺はどうしようか。今以上にこの世界を恨むことしかできなくなりそうだ。そんな俺のことを君は叱るのだろうか。
 この世界の全部を犠牲にしてでも君のことを救いたいけど、この世界の全部を愛している君のことが大好きだ。
 君を大事にしようとすればするほど、君がそれを邪魔しようとする。邪魔してくるような君のことが好きで、そんな自分のことが嫌いだ。
 考えるのはつかれた。もう寝てしまおう。君はもう寝てしまっているのだから、俺が起きていたってしょうがない。明日の朝ご飯はなんだろうか。明日はどこに行くのだろうか。君は優しくてしょうがないけど、存外自我は強かった。
 ……君は、俺が居なくても生きていける。
 俺と一緒に暮らさなくても、俺が守ろうとしなくとも、俺が側に居てやらなくとも、君は自分の足で歩いて行けるのだ。じゃあ、俺がいる意味ってなに。君を大事にする理由ってなんだ。俺がしたいから、そうしているだけだ。君に受け取る義理なんて無いのに。
 こんなことを考えてしまうこの時間がにくかった。君が起きていれば気が紛れたのにと身勝手なことを考える。日が変わるくらいの時間は、全人類が柄にもなくセンチメンタルになる時間ではないのか。
 ふと、君の目がゆらり開く。まばたきに合わせて長い睫毛が揺れる。暗い部屋の中で、君の目だけが輝いているような気がした。
 君はゆっくりと手を伸ばして、俺の頬を撫でた。
「まだ起きてたの?いけないよ、夜は寝なくっちゃ」
「……別に、寝られなかっただけだ」
「じゃあ話し相手になってあげようか」
「いや、君は眠いんだろう。寝るべきだ」
「はは、君は優しいなぁ」
 君の柔らかい声が、夜の輪郭を撫でた。冷たかった空気が一転して温かさを増していく。俺のことを優しいなんて言うけど、そんなの嘘だ。だって、俺は君以外に優しい人のことを知らない。
「それじゃあ、君も一緒に寝てよ。一人の夢はつまらないの」
 そうして、君の暖かい手が俺の視界を遮った。徐々に眠気が迫ってくる。同時に、愛おしさで胸がいっぱいになる。
 俺はいつか殺されてしまうだろう。そこに悪意など必要ない。誰かに裏切られる必要もない。この世界を取り巻く暗闇でさえ、俺の命には届かないだろう。それでも俺は、殺されてしまえる自信がある。
 ただ、君が俺に向けてくれる優しさだけで、きっと。
 暖かい暗闇の中へと、意識が落ちた。

5/2/2026, 2:02:49 PM