百加

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涙の理由


 火曜の夜、仕事でへとへとになって一人暮らしの部屋に帰った。夕食を作る気力も食欲もなくて、座り込んでクッションを抱えているとインターフォンが鳴った。
 誰とも会いたくない。無視しているとまた鳴った。続いてまた。
「気持ち悪いな……、今ごろ誰よ」
 恐る恐るモニター画面を覗くと、彼だった。
「何で今日来るの!?」
 約束なんてしていない。スマホは電源を切っていた。帰ってと言いかけた時、ドアの外で歌うような彼の声がする。
「居るんでしょ〜、開けてよ。お土産あるよ」
 止めて恥ずかしい! 零れる涙も引っ込んだ。タオルを引っ掴んでごしごしと顔を拭って、急いでドアを開けた。
「大きな声出さないでっ!」
 顔を背けながら不機嫌に言うと、のんびりした声で彼が言う。
「だって返事なかったから〜。目、赤いね?」
「た、玉ねぎ切ってたからっ」
 しまった。もうちょっとマシな言い訳はなかったのか。だけど本当の涙の理由なんて言いたくない。
 私が玄関で体をこわばらせていると、彼はさっさと靴を脱ぎ、私の横をすり抜けるようにして部屋に上がり込んだ。
「ちょっと待ってよ!」
「ほら、これ好きでしょ」
 私の目の前に彼は薄茶色の箱を差し出した。
「それは……」
 私の大好きなスフレチーズケーキのホールが入った箱だった。思わずじっと見つめていると、彼はその箱を軽く揺らした。
「ハロウィンバージョンだって」
 私は久しぶりの好物の誘惑に負けて、彼を追い返せなくなった。

 このチーズケーキの優しい味にはコーヒーよりも紅茶が合う。
 熱い紅茶を淹れている間に、彼がホールケーキをカットしてくれた。たっぷり大きくカットした方を私によこし、彼はその半分ほどの大きさのを自分の分にする。
「こんなに食べられないよ……」
「大丈夫、今日ほとんど食べてないんだろ」
 同じプロジェクト仲間の彼にはお見通しか。それ以上抵抗する気力もなくなり、小さなテーブルで向かい合って、チーズケーキをもそもそ食べ始める。口に含んだケーキはじゅわっとほどけて溶けていく。しっとりふわふわで甘さ控えめのチーズケーキは空っぽの胃に染み込むようで、とてもとても美味しかった。
 半分くらい夢中で食べて一息つくと、彼は言った。
「俺はあの案も悪くなかったと思うよ。でもチーフは要求が高い人だから」
「……慰めなんか、いらない。やるわよ」
「そうだね。彼を唸らしてやりな」
 彼はケーキを再び食べ始め、私も黙って残りのケーキに取りかかった。私が食べ終わったのを見届けると彼はさっと立ち上がり、
「じゃ、終電あるうちに帰るわ。また明日な」
「ん……」
 喉の奥がつっかえたみたいになって、ありがとうの言葉が出ない。子どもみたいだ。彼はそんな私の頭をぽんぽんと軽く叩いてから帰って行った。
 私は玄関ドアの鍵を閉めに行き、そこにしばらく突っ立っていた後、部屋に戻り、急いでベランダの窓を開けた。夜の空気が熱っぽい顔に冷たい。サンダルを縺れるように履き、手摺りに駆け寄って外を見下ろした。
 街灯の下、遠ざかっていく彼の後ろ姿が見えた。じわりと温かい涙が滲んで彼の姿がぼやける。手のひらで目元を擦る。
 背が高くてほっそりした彼のことを、私は時々冗談で足長おじさんと呼んでいた。彼はおじさんなんて、と嫌がっているけど、ぴったりだと思う。その後ろ姿に呼びかける。
「土曜日はグラタン作るからね」
 グラタンは彼の好物だから。一緒に食べたらもっと美味しくなるから。
 私の声は思ったより大きく夜の町に響いた。彼は驚いたように立ち止まって振り向くと、ベランダの私を見つけて大きく手を振った。
 よく見えないけれど、きっと顔いっぱいで笑ってくれているんだろう。私の足長おじさんはそういう人だ。
「ありがとう」
 私はさっき言えなかった言葉をそっと呟いて、大きく手を振り返した。



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10/11/2023, 2:21:56 AM