夢路 泡ノ介

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無人。静音。
どこか懐かしさを覚える空間。
孤独。呆然。
空虚と色彩の世界に立つは彼のみ。
この間までは誰もがいた。
誰もが歩いて、誰もが喋っていた。
ありふれたはずの時が奪われたように、日常という栄華は無に帰していた。
地上にはコンクリートで聳え立つ見慣れた柱ばかりである。
灰と白の世界。快晴広がる青の下。
既知とは疑わしきものに非ずと人は識っている。
だが、その狭間に込められた何かに彼は混乱している。
現(うつつ)ならば痛みも覚える。己の頬をつねればすぐに分かる。
彼はその通りに行った。なおも世界は眉一つも動かさない。
瞼を閉じて意識を整え、瞳にこの世の色を映した。
変わらない。強いて差すなら、微風が身を透して過ぎっていることだった。少しの肌寒さを覚える。

彼はひたすら歩くことを選んだ。
側からは心在らずと見えんばかりに進むのみ。
誰もいないのに、気配がする。錯覚か否かを定めるよりも強く惹きつける感覚が心を引っ張っている。
それでも歩むのを決して止めない。
答えを求める亡霊の如く、変わり映えしない石の森を進んでいく。
聞こえてるのは足音と微かな吐息。全ては己から発するもの。
彼には不思議と安堵を覚えた。自分はまだ生きている。ここは知っているようで知らない場所だと理解している。
痛みがある限りは我ここに在りと正しく自覚できる。自分を歪みなく識るための常套手段。
どれほどの路を長く踏んでいったのか。彼の足裏に疲れが表れる。
時間を確認する術すらないのに、本能的に知ろうとした自分に溜息をついた。
それを超える、帰りたいという本能が心を徐々に焦らしている。
ここがどこなのか知りようがない。
物は識っていても、そこに未知が混じると人はたじろぐ。
喜々、魅了、だがこれらに届かない恐怖という冷気が心の熱を奪う。
彼の心は凍てついてきている。温もりとなるものが見受けられない。世界は放浪者に厳しく、何も言わずに試練を押しつけた。
帰りたい——。
一心だったものに滲む言葉。
平常は己からとうに失せた。込み上がるものを抑えるのも時間の問題だった。
昨日までの当たり前は置き去りにされた。そして彼はこの世に放り出された。
次第に疑わしき既知を欲し、それがかえって首を絞めてしまった。
——そして彼は、口を衝いて出た。

唐突に立ち止まった。
眼前にあるのは朱色のカーストアイアン。北米で見られる建築様式の一つ。
出入り口を嵌めているのは木の扉。号室へと続く普通の扉。
彼の心に熱が生まれた。安堵の寝ぐらにたどり着いたのだ。
——あれ。
逸る気持ちに従うままに、見慣れた扉に近づいた。
——何か忘れている気がする。
慣れた手つきでドアノブに右手を差し伸べ、そのまま掴む。
——まあいっか。
確信を持った自分がいる。疑念なく開けようとする自分がいる。
全ては安心したいがため。恐怖という痛みを忘れるため。

彼は、躊躇いもなく右に捻った。

【夢と現実】

12/4/2023, 11:35:10 AM