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星空の下で


 ただ一つ、忘れられない思い出がある。
歳をとって亡き母の享年を超えつつある今、最近よく思い出す出来事だ。
それは今の40年連れ添った夫ではなく、別の男性とのこと。
若い時の淡いそれは、恋と言っていいのかわからないくらいのほんの僅かな時間だった。

キスをしたわけでもない、ただそっと一瞬手を繋いだだけの出来事。
それでも私は僅かなそれがとても嬉しくて、そして戸惑った。
彼とは特に付き合っていたわけではなかったから。

今では孫までいるが、それは何故か忘れられなかった。

今から30年以上前、私は工場で働いていた。
町工場の大きくはない工場で、毎日必死に働いた。
偶然にも同じ名前の女の子も働いていて、たまに遊んだりもした。
でも兄弟が多かった私は工場だけじゃなく、駅前の喫茶店も掛け持ちしていたからそう多くは遊べなかった。

実は、夫とはその喫茶店で出会った。
自慢じゃないが、若い時の夫は喫茶店に朝から女子高生が多く寄って行くほどイケメンだった。
今じゃ見る影もないのでしょうけど。
喫茶店のメインはコーヒーと軽食セットで500円。軽食はサンドイッチ、ホットサンドやトーストも選べて、サラリーマンや学生たちに人気の店だった。駅前だったこともあって朝早くから開店していたから、工場よりも喫茶店の方が大変だった。
でもマスターがいい人で、とても働くのが楽しかった。

そんな生活も2年経ったころ、工場に一人の男の子が入ってきた。私よりも2つ年下で、出稼ぎにきている子だった。
明るい子ではなかったけれど、一生懸命早く仕事を覚えようとして毎日頑張っていた。
私は先輩としてその子のサポートをしつつ、工場と喫茶店、両方の仕事を続けていた。

その年の年末。
工場の人たちで忘年会に行くことになった。
私は喫茶店の仕事があったが、マスターが折角だから、と忘年会に行かせてくれた。
場所は工場最寄りの駅から少し離れた焼肉屋さん。
炭火焼きのお店で飲み物の種類も豊富だから、おじさまたちが大喜び。
私は匂いがついてもいいような服で行った。
後輩の男の子も来ていて、新人だから案の定絡まれていた。
その子の方を気にしつつ、先に来ていた例の同じ名前の女の子、愛子ちゃんの隣に座った。
「遅れてごめん。あの子大丈夫?」
「あの子?、、ああ、後輩くん?絡まれてるけど本人今のところ楽しそうだから大丈夫だよ。様子見て、やばそうになったら助けてあげよ」
「そうだね。」
「そうそう、まずは楽しもう」

工場長の乾杯の掛け声と共に始まった忘年会はとても楽しかった。

お腹も気分も脹れ切ったころ、そろそろお開きの時間になり、駅までみんなで歩いて行くことになった。
私は後輩くんが心配で、みんなより後ろの方で彼と歩いていた。

「今日は楽しかった?」
「はい。みなさん面白くて、とても楽しかったです」
「ほんとう?なら良かった。工場長たち、結構絡み酒だから、楽しかったならなによりだよ」
「はい」

そんな会話をしながら二人並んで歩いていた。
「あの。」
「ん?何?」
「今日は、星が結構綺麗に見えますよ」
「、、、ほんとうだ。冬だから、綺麗に見えるのかも」

夜空を見上げてそう言った時。そっと。手を握られた。
一瞬のことで、私はすぐに気づかなかった。
顔を下ろして彼を見ると、顔が真っ赤で。
その時初めて私は手を握られていることに気づいた。

「愛子さん」

今まで私を苗字か先輩としか呼んでこなかった子が、初めて私の名前を呼んだ。

前を向いたまま、顔を赤くして。
私は、なにも言えなかった。
ただ、その手を振り解くことが出来なかった。
なぜか、嫌じゃなかった。
二人して手を繋いだまま、無言で歩いた。

やがて駅に着いて、手を解かれた。
離れていく体温が寂しかった。
すると彼は徐に口を開いた。

「実は僕、東京へ引っ越すんです。夢を叶えるために。
だから、工場はもうすぐ辞めます」

「、、、そうなんだ。」

「はい。」

さっきとは打って変わって、力強い目をしていた。

「わかった。工場長にはもう話したの?」

「明日話します。」

「そっか。頑張ってね。」

「はい。」

手を繋いだことなんてなかったように彼は淡々とそう言った。
さっきのは幻覚だったのかと見間違うくらいに何事もなく振る舞った彼に私は何も言わなかった。

きっとここで何か言っていたら、未来は変わっていたのかもしれない。
そう思うほど、きっとここは私の人生にとって分岐点だった。

でもこの選択が間違っていたわけではないと思う。
30年以上連れ添う伴侶ができ、子どもだけではなく孫にも恵まれた。
これ以上、望むものはもう何もない。
ただ、一つ思い出してしまうのは、あの時の彼のこと。

恋愛感情なんて大層なものはもう持っていないけれど。

どうか。

それでも、あの時の彼が無事に夢を叶えていますようにと願ってしまう。

あの星空の下で輝いていた彼の瞳は、今でも思い出すくらい、眩しかった。

4/5/2026, 10:34:46 AM