リズムと音が重なり合う。
それに耳を傾けながら、胸いっぱいに息を吸う。
全身から声が溢れる。
今日こそは、完璧に歌えている。
そう自分に言い聞かせて。
スマホの録音停止ボタンを押す。
それから再生ボタンを押す。
だけどそこから流れるのは、楽器の音と声が絡まり、飛び散った、掃除をしていないガスコンロ。汚れがこびりつき、変色し、埃が絡まり、顔を背けたくなる悪臭を放つ。
油の元気よく跳ねる音や、軽快な包丁の音、空腹を刺激する鮮やかな食材の数々や、調味料の香りはない。
「なーに辛気臭い顔して」
突然の声に、慌てて再生停止ボタンを押すが、もう遅い。
「俺はいいと思うけどな、お前の歌。けど、煮詰まってんだろ。そりゃ何十回も繰り返し歌ってたらそうなるって。一旦外行こうぜ。車出すから」
そんな時間はない、という叫びはスルーされて、気づけば街中へ連れ出されていた。
人混みが地面を踏み、雑談をしていく音、痛いほどカラフルな広告や照明の明かり、びっしりと並ぶ新作の服やら雑貨やら食べ物。
「嫌いなんだけど、こういう場所」
文句を投げつけると、ここへと誘拐してきた犯人は笑う。
「華やかでいいじゃん? 俺はこういうとこに普段いるわけ。でもさ、ずっと聞いてると、時々嫌気がさすんだよな」
そして不意に、なんの遠慮もなくこちらのカバンに手を突っ込むと、スマホとイヤフォンを奪い取っていく。
奪い返そうと伸ばした手は呆気なく躱わされ、イヤフォンは奴の耳に収まる。スマホの画面は、録音したあの不愉快なキッチンの音を再生していますよと言っている。
早く返してほしいこちらの気持ちなど真っ向から無視して、奴は満足気に笑う。
「そうそう、これこれ。こういうときにおまえの曲が欲しくなんだよ。地味で陰気で古臭い。華やかな街とは正反対の音。でもそれが落ち着く。
情報量がとんでもない街中とは全く別の、不思議な世界に連れていかれる。
なんでも揃ってるこの街中だけど、この音はおまえにしかないんだよ。俺はそこを尊敬してる」
奴はまるで自分のカバンにしまうかのような自然な手つきで、スマホとイヤフォンをこちらのカバンの中へと戻 した。
「見ろよ。ここにはこんだけ、向こうの景色なんか見えないくらいに人がいるんだぜ。街のキラキラに引き寄せられてきた、俺みたいな人間たちが」
その分、この歌を自分以上に不快に思う人間もいるだろう。……いるだろうけど。
こいつの笑顔を見ていると不思議と、それよりも“俺みたいな人間たち”のほうが多いような気がしてくる。
奴はこちらが無言であることはいつものように全く気にする様子もなく、立ち並ぶ店の数々に夢中になっていた。
「あ、あそこの店、良さそうだな! せっかく来たんだし、ついでにうまい飯でも食ってから帰ろうぜ。おまえ、今日は朝から何にも食べてないだろ」
そういえば、こいつのこういうところが好きで、一緒に暮らすことを選んだったな。
しかしそれを口にするのは照れくさいし気持ちが悪い。代わりに大きく息を吐くと、奴の後に続き、店内へと足を踏み入れた。
(お題 : 歌)
5/24/2025, 11:31:00 PM