仕事が繁忙期に入った。毎年のことだから覚悟して構えてはいたけど、いざ忙しくなってくると毎年慌てるのは何故だろう。毎日やることは変わらないのに、そのサイクルが速まって、かつイレギュラーなことが発生すると途端にてんてこ舞いになる。
この時期は残業に残業を重ねている。不思議な日本語に見えるかもしれない。でもその表現がピッタリだ。文字通り、朝から晩まで働くし、休日は返上して出勤する。厄介なのは流行りのリモートワークに切り替えられない業種というところ。朝早く会社へ行き、夜遅く寝に帰る日々だ。
歳を取ると無茶ができなくなる。本当にその通りでこの繁忙期が過ぎると体に支障をきたしている。毎年同じ時期に顔を出すようになったものだから、かかりつけ医に「恒例行事だね」と笑われてしまった。医者のジョーク、分かりにくい。
でもある程度は無茶しないといけない時がある。部下に負担がいき過ぎている時だ。社会人数年目程度の子たちの中で、断りきれなくて請け負ってしまう子が毎年出てくる。毎年だ、毎年出るのに配慮できない教育担当の社員がいる。
直属の上司である僕からの業務だけでなく、他部署とも連携して行う作業があるからそれを細分化して仕事を振っているのだろうけど。細分化した仕事も請け負ってくれる子とのらりくらり躱す子がいて、偏りができてしまうのだ。
口酸っぱく言っても効かないものだから、自ら助太刀に出るしかない、と仕事を手伝うのだ。部下の分も、新人の子たちの分も。遠慮する部下たちに「僕だってこういう仕事できるんだよ!」と明るく振る舞う。
そうして、定時はまた過ぎていくのだ。
「ただいま」
そっと鍵を回して、ドアをゆっくり引く。なるべく音を立てないように、でも素早く中へ入ってドアを閉めた。戸締まりまでやって、ようやく息をつくことができた。
家だ、我が家だ。
連日の仕事でテンションが振り切れていて、今すぐ駆け回りたい気分だ。とっくのとうに日を跨いでいたので、音を立てないようにコソコソ歩いた。
寝室でスーツを脱いでパジャマに着替える。あとは風呂入って軽く何か胃に入れて寝るだけだ。わざわざ部屋着を挟まなくてもいいだろう。
洗い物を腕に抱えて部屋を出ようとして、ふと後ろが気になった。
寝室はクイーンサイズのベッドが一つだけ置いてある。そこで僕と妻、四歳の娘の三人家族で川の字になって寝ているのだ。
僕は息を潜めてベッドに近づいた。僕が仕事で帰りが遅いから、妻は奥の窓側で寝ていて、娘は僕と妻の間に挟まれて寝ている。
ベッドを覗くと、掛け布団から大きくはみ出た娘の足が見えた。寝ている間に上下逆さまになったようだ。妻は大の字になっていて、おそらく娘の下敷きになっているらしい。掛け布団だけは、何故かしっかり被っているものだから思わずクスッとしてしまった。
娘の顔を掛け布団から出してあげ、頭を枕に乗せてあげる。娘は変わらずスヤスヤ眠っている。ふっくらとした柔らかい頬を、僕は指でなぞった。
結婚は二十代で早々にしてしまったが、子どもはなかなかできなかった。不妊治療に二人で通って、たくさん喧嘩して、たくさん泣いて、何度も諦めようとして。
「でも、やっぱりあなたとの子どもがほしい」
妻は泣き疲れてぼーっとしたまま、そう呟いていた。こんなにつらい思いをするなら、一層のこと二人で幸せを探しながら歳をとっていこうと提案した時のことだった。
ただ子どもがほしいんじゃない、あなたとの子どもだからほしい。
妻の目から意思が見えて、僕はその妻に応えたいと思った。僕と妻の子どもを諦めないと、覚悟を決めた。
そしたら案外あっさりと子どもを授かったから拍子抜けした。知らせを受けた時はあまりの嬉しさに二人で一晩泣いたものだ。
元気に生まれてきた娘は、やはり可愛かった。将来、周りの友達のご両親よりも年寄りな自分の両親にショックを受けるかもしれない。早いうちから介護が云々聞かされるかもしれない。老後は娘に迷惑をかけないように、と今のうちから少しずつ準備しているけれど、今のご時世どうなっていくかわからない。
今は自分たちの問題よりも、娘が元気に成長していけるようにしなくては。
もちもちと柔らかく、きめ細やかな肌触りが癖になる。妻も同じ頬を持っていて、若い頃はしつこいくらい触っていつも怒らせてしまった。娘もきっともう怒る年頃なんだろうな。寝ている最中に触ったなんて知ったら、きっとショックだろう。
頭では理解しているが、触る手が止まらない。そのうち癒やされたのか、ウトウトし始めた。まだ風呂に入っていないし、何か食べないと空腹で眠れない。
僕は自分の意思とは別に、体を起こすことなくベッドに寄りかかったまま、意識を失った。
次に意識を取り戻した時、心は軽いのに体の節々がバキバキと鳴り、悲鳴をあげてしまった。
『束の間の休息』
10/9/2024, 2:32:07 AM