日々増え続ける痣が、どうしようもなく悲しくて。あの手が、私に触れるたびに、悪寒がして。信じたくなくて。あの手が、かつて、僕の頭を優しく撫でてくれて、ぎゅっと、抱きしめてくれた、実の母親のものだなんて。考えたくも、なかった。
「早く飯出せよッッ!!」
そう言って、また、僕の母は金切り声をあげる。拳を振り上げる。薄暗くて、日の光のない部屋。唯一の明かりは、うるさく笑っているテレビの明かりだけだった。ゴミが散乱して、そこら中にゴキブリがいて。母の拳がおでこに当たって、尻餅をついた。手から、足から、蟻やゴキブリ、蜘蛛がよじのぼってきて。頭から、血が垂れてきて。
『ご、ごめんなさい。母さま。いま、今作りますから、、どうか、!』
僕は膝の上にいる蜘蛛や蟻、太ももらへんにいるゴキブリの感触を感じながら、必死に謝った。頭がくらくらする。
「ごめんじゃねぇよッ!早く作れやこんの、のろまッッッ」
さらに頬を殴られ、地面に頭を打つ。腹を何度も蹴られ、腕や肩を殴られる。終いには、僕に馬乗りになって、顔を何度でもぶたれる。
『ごめんなさいッ、ごめんなさいッ…!』
僕はひたすらに謝って、腕で顔を覆った。そんな僕にムカついたのか、母は私の腕を、一層強く殴った。左腕から、"バキッ"と音がしたかと思えば、激痛がはしった。
『ぅ"……あ"…ぁ"…?』
声も出せない。見てみると、心なしか、人間の体の構造上、曲がるはずのない部分が曲がっていた。素人でもわかる。骨折していた。
「チッ」
その様子を見ていた母は、面倒臭くなったのか、私の髪の毛を掴んで、引きずった。ベランダに放り投げ込まれ、左腕がベランダの壁に当たる。
『あ""""が"""ッッッッッ"!?』
放り出された物理的な衝撃よりも、折れた左腕がベランダの壁に当たったことによる衝撃の方が、何億倍と痛かった。僕は左腕を包むようにしてうずくまり、痛みに耐えた。ふと、ベランダと部屋を繋げている窓が見えた。鍵が閉められていて、カーテンで部屋の様子が見えなかった。ベランダには、雪が薄く、積もっていた。このままでは死んでしまうと、私は折れてない方の腕に繋がっている手で、ベランダの窓を叩き、必死に訴えた。母には聞こえるはずのない僕自身の声で。
『ごめんなさいッッッ!ごめんなさいッッッ!お願いッッッッッ!ここから出してよッッッッッ!!!寒い!!寒いよう!!!!』
部屋からは、物音ひとつもしなかった。
『母さま、出かけたんだ、。』
僕はもう何度も感じてきた絶望よりも、なんだかもっと悲しいような、切ないような気がした。でも、その後すぐに、パキッて、音がして。そしたら、随分と、心が軽くなって。馬鹿馬鹿しくなって。ベランダにあった、昔よく母さまが座っていた椅子が、物悲しく光っていた。私は、その椅子に導かれるように向かい、ベランダの柵の近くに置いた。そして、椅子によじ登って、ベランダの柵から、下を見た。下には、楽しそうに笑っている家族がいた。僕と、そんなに年の離れていないだろう、そんな男の子が、両親と手を繋いで、笑っていた。その家族は、みんなあったかそうで、首に、マフラーを巻いていた。赤くて、幸せそうな色。僕は、途端に涙が出てきて、雪の積もるベランダの柵を濡らした。僕の母さまは、もう、昔の優しい頃とは比べ物にならないくらいの人になっていて。僕に手をあげるような母さまじゃなかったのに。僕の、僕達の幸せは、とうの昔に壊れてしまっていて。それもこれも、全部父さまが死んでしまったせいで。柵の下にいる、あの家族が、どうしようもなく、羨ましくて。
『もう、いいや。』
どうせ、僕がいたって、何にも変わらない。痣は増え続け、太陽の温もりが、恋しくなるだけだから。僕が死のうが、生きようが、母さまはきっと、もう僕のことなんてどうでもいいから。だから、もう、
終わらせよう。
僕は柵の上に座った。不思議と、折れた左腕は痛みが引いていた。両手の指先は、赤くなっていて、小刻みに震えていた。
『ありがとう。母さま。母さまだって、辛かったよね。あんなに父さまのこと、大好きだったもんね。だから、僕の顔がより一層、嫌いになったんだよね?僕の顔が、父さまにあまりにも似過ぎていたから。でも、もうだいじょうぶ。もう、父さまを思い出すことも無くなるし、お金を圧迫してた僕だっていなくなる。もう、母さまは、自由だ。』
僕は、柵から飛び降りた。重力に従って、僕の体は下へ、下へ、落ちていく。ふと、見えた空は、快晴だった。
『僕、母さまの役に立てたかな?』
体も心も中に舞って、何だか、軽くなった。
昔、母さまに聞いた事があった。死後、良いことをしたのなら天国へ、悪いことをしたのなら地獄へ行くと。もし、その天国と地獄があったのなら、きっと僕は、地獄行きだ。
ぐちゃりと、鈍い音がした。雪は、だいぶんと薄く積もっていたから、コンクリートの上に落ちたのとほぼ同じだった。でも、真っ白い雪は、僕の血で染まって、キラキラと、太陽の光を反射していた。
僕が次にいる世界は、地獄なのだろう。どんな罰があるのかな。母さまが言っていた事が本当なら、ちょっぴり、
怖いなぁ。
6/28/2025, 9:13:39 AM