しぎい

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ゴキブリの、脚。

そう認識したときには、私はジュースが入ったコップを床に落としていた。
中身がバシャンと地面に叩きつけられる音と、ガラスが割れる音が後から脳に伝わってくる。

なんだなんだと客が集まり始めた。動揺しきった酷い顔を見られたくなかった私は、髪で何となく顔を隠す。

若い男の従業員がほうきとモップを携えてやって来た。
ファミレスの客がドリンクバーのグラスが割るのは日常茶飯事なのだろう。
けど私の青ざめた顔を見たとたん、表情が険しくなった。

従業員は駆け寄ってきて、まず私に怪我がないか心配した。私はあたふたと大丈夫と応える。久しぶりに発した声は、どこか不自然に聞こえた。

(この場から立ち去りたい)

だがそんなわけにも行かず、私が「あの、あの、すいません」と謝ると、従業員は「いいんですよ」と笑った。

「服とか汚れていませんか」

気を遣ってくれたにもかかわらず、私は早くこの店から逃げ出したい思いでいっぱいだった。

「大丈夫です。あの、早く片しちゃってください。何だったら弁償しますんで」
「いいえ、よくあることなので」

爽やかに笑いながら、従業員は床に撒き散らされていたガラス片とジュースの片付けに取り掛かる。

モップがかけられるとともに、ゴキブリの脚も絡め取られていく。
水面に浮かんでいたときはあんなにもおぞましかった物体が、あっさりと片付けられていく。

私は繰り広げられている掃除を見ながら、不思議に思った。

なぜ虫の脚ごときに怯えているのだろう。なんで今も思い出して吐きそうになっているのだろう。

手馴れた従業員の掃除テクニックで、床はたちまち綺麗になっていった。

(いい店員さんだけど、もう行かない……)

3/15/2025, 3:56:15 PM