玄関の明かりが灯ると、熊吉は深い安堵に包まれた。シンと静まり返った家は、
まるで彼の帰りを待っていたかのようだ。
両手にエコバッグを抱え、今晩の献立を頭の中で
並べながら、キッチンへ向かう。
サラダ、カルパッチョ、ブルスケッタ、ステーキ肉。
締めは妻の好物である苺を贅沢に使ったホール
ケーキ。奮発して、年代物のワインも開けようか。
「パパ〜、なにしてるの?」
包丁を軽快に操っていると、足元から幼い声がした。娘のミキが、興味津々といった様子で覗き込む。
「ご馳走を作ってるんだよ。今日はパパとママの
結婚記念日だからね」
「ごちそう!?やったー!」
ご馳走という言葉に、ミキは目を輝かせ、
無邪気に小躍りし始めた。
「でもね、今日はパパとママ、二人だけの
特別な日だから、ミキは邪魔しちゃだめだよ」
「えー!ずるい!ずるい!」
ぷう、と頬を膨らませる娘に、熊吉は苦笑する。
「じゃあ今度、Switch2を買ってあげるから、
それで許して」
娘のご機嫌を取りつつ、熊吉は壁の時計に
目をやった。もうすぐマユのシフトが終わる頃だ。
彼女はどんな顔をするだろう?
きっと喜んでくれるに違いない。
「ママ、遅いねぇ」
ソファに寝転がったミキが、
足をパタパタさせながら呟いた。
「そうだ、ママに写真を送ろう。
このケーキを見せたら、きっと喜ぶよ」
「賛成~!」
二人は真っ赤な苺のケーキを挟み、
満面の笑みでシャッターを切った。
メッセージを添え、送信ボタンを押す。
熊吉はそっと目を閉じた。
――マユ、早く帰っておいで。
そして、僕たち二人だけの愛の時間を過ごそう。
――
「はぁ……」
控え室でスマホを片手に、マユは深い溜息をついた。
今日のバイトもようやく終わり。
しかし、疲労はピークに達していた。
「お疲れ様、マユ。大丈夫?顔色悪いよ。
もしかして、またあの人?」
バイト仲間のヤヨコが、心配そうに声をかける。
その言葉に、マユは力なく頷いた。
「うん……」
マユは震える指でスマホの画面をヤヨコに見せた。
大量に送られてきたメッセージの羅列。
すべて、彼女目当ての常連客からのものだ。
『マユ、今日も一日お疲れ様😃朝から暑くて
ヘトヘトだよ~(^_^;)💦マユはもう上がり?
終わったら連絡してほしいな😉』
『ミキと一緒に結婚記念日のディナーを作ってるよ(´∀`)ノ⭐️早く帰ってこないと全部食べちゃうかも😘』
マユの勤務先に頻繁に現れる三毛別熊吉。
軽い世間話をしただけなのに、開店から閉店まで
居座り、しつこく連絡先の交換を求められ、
とうとう根負けして教えてしまったのが運の尽き。
それ以来、一日数十件にも及ぶメッセージが
届くようになり、マユは心身ともに削られていた。
彼の中では、マユと自分は「結婚している」ことになっているが、そもそも二人は付き合ってすらいない。
「このミキって誰なの?」
「さあ……なんか、私との間に子どもがいる
設定みたい」
「えっ、何それ、怖すぎるよ。
警察に相談した方がいいって」
「……」
はっきり拒絶すべきなのは分かっている。
だが、下手に刺激すれば何をされるか――。
マユは青ざめた顔で、
再びLINEの画面に目を落とした。
そこには、『二人の結婚記念日おめでとう』と書かれたケーキを掲げる、熊吉一人の写真が映っていた。
お題「二人だけの。」
7/15/2025, 6:12:08 PM