西郷

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『どうしてこの世界は』





 知らないはずはない。
 だって君はコレを見ていて、呼吸をし、生命活動を終えることなく、憂鬱な明日にほんの少し、愚痴を漏らして生きている。
 いつまでも数字に取り憑かれ、数字を求める亡者と化した現代(イマ)に辟易しながらも、君は歩みを止めることはない。生命活動という名の生き地獄を抜きにしても、他人からの評価、己の中での自己採点、社会の不況、全てに於いてしがらみを多く抱えたこの世界で、君も、そして私も呼吸する。
 自分が全て良ければよし。ああ、確かに素敵で理想的な考えだ。出来ることなら私だってそう思いたい。
 だけど、何故この世界はソレを許さないのか。一人が幸せを掴もうとすれば、十の人間が足を引っ張り奈落へ引き摺り落とす。他人を蹴落とすモノだけが上に這い上がる。優しく謙虚なモノほど、バカを見る世界に嫌々生きながら、それでも己の不快さが勝てば躊躇なく他者を蹴落とす。

 ああ!
 忌々しい!! 忌々しい!!

 グルグルと回るおどろおどろしい感情を唾棄しようにも吐き出す場所が無い。数字が支配する社会カーストの最下位に位置する私には、その権利すら奪われてしまった!


 ……輝かしい明日への憂鬱を小言のように吐き出していける君が、心底羨ましい。絶望の芽だけを育て続けた私とは、きっと考えも状況も、未来という不確定要素の形すら違うんだろう。誰かに何を言われようとも、君は心に傷を作っても前を向いて進む。

 ――私はもう、疲れてしまった。
 この世界の光というのは、本当の意味で幸せにはなれない。それで幸せになれる人は余程恵まれているか、その環境で戦い抜いて勝ち上がったモノだけだ。
 死体の上に犠牲が成り立ち、犠牲の上に小賢しさを蓄えたモノのみが俯瞰出来る世の中。……数字が回す世を恨み、適応すら成せなかった己自身を憎しみ、未来に祝福された君を――否、君たちに少しの祝福を乗せて、私は逝く――

 さらばだ、永遠に分かり合えない世界よ。
 願わくば――産まれてくる新しい命が少しでも、多く花を咲かせますように。











「――あっはは!!
 こんな事遺書に残して死ぬやついんの?! おもしろー!」

「ちょっと先輩……、それヒトとしてどうかと思います」

「ハハッ、まぁまぁ、んな怒んなって」



 ジメジメとした部屋だ。

 湿気と空気が籠って、やけに埃っぽい臭いと鼻腔の奥を突き刺すような異臭で満ちている。臭いの先を辿れば、宙からぶら下がる、物体一つが独りでに揺らめいていた。


「“コレ”が言いたい事も分かるけどねー、でも死んじゃダメだよ死んじゃ。
 だって死んじゃったら――その発言は“無かった”事になる。ほら、死人に口なし」

「……」

「僕らのような?
 秘密裏に“回収”しに来る奴らにぜぇんぶ持ってかれて?
 最後は“キミ”の死の尊厳までぐちゃぐちゃに消費されるんだから――さ」

「――先輩」

「おっと口が滑ったぜ。
 ハハッ、お前――この仕事向いてないねぇ


 ――母親をこう言った形で失くした奴の言葉の重みはちが――、と」



 ヒュンッと切り裂く風の声を鼓膜に届いた瞬間、微かに頬が熱を持つ。横に並び立つ後輩の手には、いつの間にか抜き出していた小型ナイフが握られていた。
 どこまでも無表情。底の見えない真っ黒な瞳でこちらを見つめてくる後輩へと、僕は降参の意を表して両手を上げる。



「ごめん、からかい過ぎたよ。
 もう遊ばないから“ソレ”引っ込めてくれる?」

「…………早く仕事してください。他にもまだ回らないといけない所もあるんですよ」



 そう言うと後輩は僕の動脈に押し当てていたナイフをスッとしまい、顎でぶら下がる物体を指し示した。
 確かに後がつっかえているのもあるし、手早く進めてしまうに越したことはない。
 僕は未だに独りでに揺れているソレと向き合い、右手の指先を掲げる。親指と中指、ぐっと意識を集中させてパチンと放てば――ソレは瞬く間に青い炎に包まれた。



「ほい、一個目の仕事終わり!
 ……あと何件あったっけ」

「あと六件です」

「はぁ〜僕らも所詮、数字の奴隷だ〜……っと、どしたん?」

「――“コレ”、筆録者たちの所で記録保管してもらおうかと思いまして」

「ふーん、いいんじゃない?」



 後輩が徐に燃え盛る火元の前に屈み、机の上に乗っていた遺書を手にして呟く。じっと遺書を見つめる横顔に感情を見出す事が難しい。元来、入社してきた当初から表情筋を働かせた事がないこの後輩は、きっと僕が何をやったとしても動じる事もないだろう。
 それだけに、少し勿体ない気もしてしまうのは、僕のお節介だろうか。


「んー、とはいえさっきのはデリカシー無さすぎたな……反省反省」

「……?
 何か言いましたか、先輩」

「んにゃ、なんでもにゃーいさー!」



 ポンポンと軽く、屈んだまま動かない後輩の肩を叩いて退出を促せば、予備動作なく動き出す後輩。少しロボットじみた子ではあるが、悪い子でもない、きっと何処にでもいる普通の子。
 そんな後輩の後ろ姿を一拍見つめて、僕も足先を玄関へ向ける。……燃え続けるソレを視界に入れたくなくて、足早に歩みを進めながら。
 死にたい奴、死にたくないけど死ぬしかない奴が多いこの世界で、死ぬ権利すら与えられない運命を背負わされた僕たち“送り火”という存在には、今も爛々と燃え盛るソレが――心底羨ましいし、憎らしい。





「はぁー、いつになったら僕らは解放されるのかねぇ」

「難しいですね、その問題は」

「なー。
 ……あ、そうだ。帰りに飯いこ、飯」

「……先輩の奢りならいいですよ」








6/10/2025, 2:05:29 AM