ボロボロのセーターはあたたかい。
「母さん」
このセーターを着ていれば、いつか母に会えるような気がした。あの日、俺を置いて出ていった母親。寒くないようにと着せてくれた女物のセーターはいつしか伸びきって今の俺が着ても少しぶかぶかで。
「スナック朝霧。電話番号は」
毎日の日課だ。忘れないよう、その言葉を呟いている。
綺麗なワンピースに身を包んだ母の姿。夜に家を抜け出して、重いドアを開けるとこんな場所に来るなと叱られた。それでもオレンジジュースを1杯だけ飲ませてくれた。あれは、思い出の味。
「あの、すみません」
ふと顔をあげると、上下ジャージに身を包んだ同年代くらいの男が俺を見下ろしていた。
「はい?」
「実は僕、ここへ来たばかりで……その、ルールとか、教えて貰えないかなと」
男をまじまじと見た。髭はきちんと剃られているし、髪も短い。ジャージもヨレてはいるが穴は無い。大きなリュックだけが彼の荷物なのだろう。
「構わないけど、どうしてここへ?」
「家賃とか諸々を滞納しちゃって、逃げてきたんです。あはは、情けないですよね」
「いや、そんな人はいっぱいいるよ」
それから俺はその新参者にこの公園でのルールを教えた。まず、長老と呼ばれている爺さんに挨拶に行くこと。それから寝る場所は極力隅を選ぶこと。近くのホームセンターやスーパーなども案内した。
「あと、炊き出しが来るけど新入りは最後に並ぶのと……それから」
「親切にありがとうございます。あの、僕、お礼できるようなもの何もなくて」
「いや、いいよ。ここでは助け合いの精神が大事なんだ」
「あっそうだ」
そう言うと男はポケットに手を突っ込み、スマートフォンを取り出した。
「まだ使えるんです。もし電話したい相手とかいれば、良ければ」
電話。そう聞いて真っ先に浮かんだのは母の顔だ。
何年も前の話だ。きっともう働いてはいないだろう。それでも、俺が知る唯一の手がかりがあの店だ。スナック朝霧。何度か店の前まで行ったけど、入る勇気が持てなかったあの店。いつしか店の前へ行くことすらやめてしまった。
「それなら……」
俺は新入りからスマホを借りた。
かじかんだ手では少し扱いにくい。それでも俺は必死に記憶に留めていたあの番号を押した。冷たい風が吹き抜ける。ボロボロのセーターはもう役目を果たしていない。でも、あたたかい。この服がいちばん。
何度か呼出音が鳴った。店は営業している時間帯のはずだ。
でも、繋がらない。
「ありがとう。返すよ」
「いいんですか?」
「繋がらないから、多分」
「あ、それなら。パーカー持ってるんです。それあげますよ」
「いいよ。君が着た方がいい。ジャージじゃ寒いだろうから」
「でも」
「ここでのルールだよ。干渉しすぎもダメなんだ」
そう言うと新入りは黙った。これでいい。
母さんも、思い出の店も、とっくに失っていた。俺にはあたたかなセーターがある。思い出も、ある。それさえあれば充分だった。
小さな思い出だ。でも、その灯火さえあれば生きていけるから。これで良かった。火が消えない限り、これで。
9/3/2024, 3:01:19 AM