名勿し

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誰かのためになるならば
私は喜んで死のう。

しかしそれが誰の利益にもならないのならば、
私は絶対に死にたくはない。

そもそも死は生きるという行為に組み込まれているもので
死ぬと生きるは対義語にはならない。

人は常に死なない様に生きているわけじゃない。
しかし死んでもいいと思って生きている人は少ない。

皆んな何かに依存しながら、自分自身の根元にある
『どうにかなる』という不確かな希望を信じてる。

私だってそうだ。

誰かのためになるのなら、、、。
そんなのただの言い訳だ。
私の人生が、少しでも神様に認められて、誰かに偉いと
褒められて、讃えられて、いい所に行けますようにと
いう、私利私欲の為の言い逃れに過ぎない。

きっと神様はそれすらも見ているのでしょう?
私がどんなに邪悪な人間か、本当はそれすら
ご存知なんでしょう?

でもそれでいい。死んだ後は誰も分からないのだから、
死に方くらい選ばせて欲しい。それが結果として、
「誰かのために」なったのなら、私はいい人で居られる。
建前上でも、その人にとっては良い人になれる。

それが私にとって幸せかと言ったら、
そうでもない気がするけどな。

ダメだダメだ、こんな事ばっかり考えてると
私同士の否定し合い脳内会議が開かれる。

議題は私は「死にたい」のか「死にたくない」のか。
戦いは偽善者の私VS私VS客観的な意見

いや今そんな話してない。

ほらまた出てきた。
人の否定が大好物な邪魔者。私だけど。

冒頭で述べた通り、だが、私は利益の無い死はしたくない。
私の命で誰かが助かるのならばそれでよし、
私が死ねば世界が平和になるならそれでよし、
でも、私が死んで喜ぶ奴のために死にたくは無い。



結論、死にたくないのである。



7/26/2023, 1:34:33 PM