カラオケに行くと、妻が必ず歌っていた曲がある。
Say goodbye to the irreplaceable time we spent together. bye bye
この部分が妙に印象的だが、意味はわからない。
文脈がさっぱりでも伝わるもの、それは妻の声だ。本当に悲しそうに歌う。誰かに向けて歌っているようだった。
妻は僕に何かを伝えたかったのかも。そう気づいたのは、たった今だ。
「お母さんがいつも歌ってた曲、覚えてる?」
高校生になった娘に訪ねた。
「知らない」
不機嫌にさせるのはわかっていた。でも、僕は向き合わなければならない。妻の思いを知る必要がある。
「Say goodbye to the irreplaceable time we spent together. bye bye」
流暢な発音で親友が呟いた。それを聞いて、娘は鼻で笑う。秀才同士だけが理解し、僕はおいてけぼり。なるほど。だから妻は洋楽を選んだのか。恐らく、僕に向けたメッセージではない。
「翻訳してくれない?」
「共に過ごしたかけがえのない時間に別れを告げる。バイバイ」
随分と綺麗な言葉が並んでいる。娘が鼻で笑うわけだ。妻にとっての『かけがえのない時間』とは?
僕と親友は、幼い頃から妻にパシリにされてきた。娘に至っては、思い出さえ残っていないだろう。フラフラと出歩いて、気が向いたら帰る。そんな女だった。
妻の親は資産家で、派手好きだ。パーティーを主催するのが好きらしい。妻は長女で、いわゆる跡継ぎだった。しかし、責任感をどこかに捨て置いた振る舞いをする。会場をフラフラと抜け出すから、僕たちは護衛も予て追いかけた。
僕は弱いけど、親友は喧嘩も強い。本当に隙がない奴だと思う。
当時の記憶で鮮明に浮かぶのは、夜の闇に映えるスパンコールのドレス。街頭の光をキラキラと反射するそれは、妻の美貌を引き立てた。追いかける僕らに気づいた妻の、妖艶な笑みを忘れることができない。こうやって男を誑かすのか。そう思ったんだ。
「あのときのスパンコールドレス、綺麗だったよな」
「そだね」
脈絡もなく話したのに、すぐに当時の話だと理解する。それだけの回数、この話を親友にしているのだ。決まって感情の乗らない相槌だけど、毎回ちゃんと聞いてくれる。
真面目に話すのが恥ずかしくて、今まではどこを見てたかの話しをしてきた。僕は二の腕で、親友は耳朶。譲れないフェチを語り合った。だが、娘の手前、そんなおふざけもできない。
「あいつがあの顔で他の男を誑かすのが、耐えられなかった」
「そうだよな。でも、あいつは誑かすんだよ。配偶者がいても」
「うん」
「それがあいつの生き方なんだ」
「うん」
ただの恋愛結婚なら、慰謝料を請求して離婚するだろう。しかし、僕らの絆はそんな簡単なものではない。もっと深いところで、複雑に絡み合っていた。
妻の歌う『かけがえのない時間』とは、幼少期のものだ。性に狂って変わってしまう前の、無垢な少女だった妻の、人生そのものに別れを告げていた。
僕らが共に過ごしたかけがえのない時間。妻が複雑に絡み合った絆を引き千切るのなら、その気持ちを尊重する。だから、僕も別れを告げよう。
「bye bye...」
3/22/2025, 11:53:36 AM