ドルニエ

Open App

「おい」
 窓辺から身を引き、ギターをケースにしまい、休もうかとベッドに身を横たえてしばらくして、そんな声が聞こえた気がして、俺は身を起こした。
「――」
 それは夢か、幻覚か。そう思った。癖の強い髪が月の光に透けているように見えていたから、あるいは、シルエットが光を帯びているように見えたから。もしくは、あまりに甘い気持ちでいたから、それが目の前の影を呼びさました――とすら感じていた。いささか文学的すぎるが、それにしても都合がよすぎるというものだ。たとえ彼女が一流の盗賊なのだとしても。
「何を呆けている?それとも私の姿など憶えるほどのものではなかったか?」
「あの。本当に、」
 あなたなんですか?
 ベッドからすとんと降り、肩を掴むと、それが実体のあるもの、つまり本物のあのひとであることが分かる。
「どうして」
 二歩ほど下がってあのひとの目を見あげる。裸足でいるためか、いつもよりわずかに高い位置にあるブラウンの目が静かにこちらを見据えている。
「呼んだのはお前だろう」
 そう、一歩そのひとは踏み出す。俺はそれに合わせて下がろうとして、ベッドに突き当たって体勢を崩すと、目の前の影がしなやかな動きでそれを踏みとどまらせた。そのままいつもよりはソフトに抱かれる。
「危ういやつ」
 その振動を感じて、俺はようやく相手の背中に腕を回した。ふたり分の力で引きあっているのに、今日はそれほど苦しくない。ほんの少し月明かりが眩しい。
「聴いていたんですか?あの歌を」
「意味は分からなかったがな。前よりはうまくなったんじゃないか?ああいう歌も」
 ――前聴いたときは甘ったるくてとても聴いちゃいられなかったぞ。
 宿の人に怒られないようにずいぶん音を絞ったつもりだったんですが。そう言うと、私を何だと思っている、とあのひとは返してくれた。
 普段とは違う種類の抱擁。あのひとも、俺も、相手の身体を求める気持ちはたぶんない。しばらくそのままでいると、あのひとは来い、と言って窓枠に足をかけ、すぐそばに張り出している屋根に飛び移った。
「ちょっと」
 俺は及び腰になりながらもそれに続く、当然、あのひとのように静かに飛ぶことはできなかった。
「まあ、落ちなかっただけでもいいか」
 そう言って屋根のてっぺん、棟と呼ばれる場所に腰を下ろし、手で隣に座るようにあのひとは促した。
「今日は飲んでないんですか?」
 俺はそう言いながら少し間をとって座る。あのひとはそんなわけないだろう、そういってどこからともなくスキットルを出すと、蓋に酒を注いでこちらに渡し、自身は直接注ぎ口を舐めた。彼女のいつも飲んでいる蒸留酒の匂いが鼻をつく。
「カージェスとポーラを酔いつぶしてやった」
「またそんな――」
 ちゃんと部屋まで送ってあげたんですか?と問うと、それは居合わせたやつに押しつけてやった、と応えてあのひとは声を出さずに笑う。そうして、俺はようやくあのひとの息から酒気を感じるようになる。
「ほら、お前も飲めよ」
 さらにスキットルをひと舐め。それを見て俺はようやく蓋に口をつけた。
「ん、――ふぅ」
 やはり蒸留酒をストレートで口にするのはきつい。こんなところに割るものなどない。そんな風に飲んでいると私に襲われるぞ?そう、あのひとは俺の空いた手に自身の手を重ねる。
「でも、そんな気分じゃないのでしょう?今日は」
 分かってますよ。そう言って俺は蓋のふちを舐めた。
 深い緑の空を貫く月の光と、遠くを流れる雲。遠くからはまだまだ酒場の喧騒が聞こえてくる。
「お前はまだA****に、私についてくるつもりなのか?」
「はい」
 こちらを見ることなく問うあのひとに、俺は短く応える。
「あなたこそ、僕に飽きてしまいましたか?」
「――」
 あのひとはこちらの問いには応えず、言葉を重ねた。
「ウッドランドのさる領主とその妻はな、それぞれ夢を追って強欲の魔女に取って食われたそうだ。お前もそうなりたいか?」
「それは、」
 どういう意味ですか、と問おうとして留まる。そして考える。
「それは僕にも、そしてあなたにも分からないことなのではないですか?もしそうなら、僕はとっくに『食われて』いるんじゃ?」
 そう言うと、あのひとは罠というものは十重二十重に仕込むものだ。自分で手を下したくないなら、仕掛けは大きくなる。逃げ道を少しずつ狭めてゆき、いつの間か逃げられないようになっている。それが罠だ。そう言いながら、俺の手の甲の骨の出ている部分を指先でなぞる。
「それに、あなたはそんなことはしない」
 きっと、僕相手なら自分で始末するでしょう。俺は俺の手をなぞるあのひとの手に、空いた手を重ねる。
「そうかな」
「はい」
 蓋を慎重に平らな部分に置いて体を少し離すように座りなおすと、俺は両手であのひとの手をとった。こちらを向いたあの人の顔は半分陰になっている。俺はその中に光るあのひとの目を見る。削ぎ落ちかけた耳がじんじんする。
「僕は弱い人間です。よほど頑張らないとあなたに対抗すらできません。でも、あなたのそばにいたい。これからも、今も、きっと当分それは変わらないでしょう」
 俺は弱い。だから、でも、あなたのそばにいたいんです。
「あなたさえよければ」
 こんな不安定な場所でなければいつものようにすがりついただろうか。
 あのひとは俺の後ろからスキットルの蓋を取ると、中身をひと息に飲み干した。
「先々のことは何も約束しないぞ?」
「はい」
 距離を保ったまま、あのひとも俺の目を見る。柔らかいが強い眼差し。
「――、―――― ――」
 故郷の言葉にふしをつけ、流れと抑揚をもたせる。低く低く、このひと以外に聴かれないように。
「――――、―――― ――」
 あのひとは意外そうな顔をしたが、黙ってそれを聴いてくれている。
「――、―――― ―― ――」
 それは先ほど歌ったものとは部分的に同じだが、流れも並びも異なるものだ。俺自身覚える気もない、その場限りのもの。
「―― ――、――――」
「――」
「ありがとうございます」
 歌い終わると、俺は握ったままでいたあのひとの手に唇を寄せた。
「戻りましょうか。少し冷えますし」
「そう、か?」
「ええ」
 俺は腰をあげると慎重に棟を伝い、少し不格好に部屋に戻った。
 あのひとは窓辺までついてくると、ではな、とだけ言って音もなくどこかへ消えていった。
 またとないほどの月夜はすぐに終わる。陽が多くのものを照らし、暴き、晒す。人々が行き交い、話し、争い、別れる。そんな日がまた訪れる。だから僕らもあんなことをして、あんなことを口にした。それだけの夜だった。

5/26/2024, 12:49:20 PM