ちょる

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ある暑い夏の、そんななかでも特段に日差しがキツイ日。毎日を生きるのが辛くて、生きることを考え始めた頃。無神論者の私に神様ができた。
その笑顔は1級品で他の何にも比べられない。トレードマークの高く結ばれたポニーテールは彼女に漲る元気さを象徴している。日焼けで茶色くやけた毛先を揺らした神様は私の前に舞い降りてきて、こう言った。

「ね、先輩。汗ふきシートもってない?」


私は美術部の幽霊部員だ。1年生の時はしっかり行っていたような気もするが、去年から部室である美術室への足取りが重くなってしまった。美術部に入っているからと言って美大進学を視野に入れられる程の腕では無い。人より少しばかり上手というだけだ。
絵を描くのは好きだ。でも、ただそれだけ。それが何か生きるための心の支えになったりするなんてことはない。受験勉強で毎日すり減っていく心とヒステリをおこした母親の相手と、ろくに帰ってこない父親。特に仲のいい人もいない高校生活。ただが十数年しか経験していない私にとっては随分ギリギリな状況だった。もしも絵を描くことが楽しければ、明日を生きる理由にでもなったのだろうか。そんな存在し得ない未来を考えるのももうやめる。とりあえず今は家と学校と図書館の往復をするだけだ。塾には通わせてもらえない、でも家も学校も集中なんてできないから少し遠い図書館まで勉強場所の確保に勤しむのだ。

そんな大した価値もない毎日を過ごしていた私の下に、突如として神様は舞い降りてきたのだ。

彼女は美術部1年生の斎藤凛乃ちゃん。今の1年生がいる時に部活動に顔を出したのなんて、強制参加だと言われた年度始めのオリエンテーションのときだけだろうに。よく私なんて存在を覚えていてくれたものだ。私は凛乃ちゃんのことを名前こそ知らなかったが、姿は何度かみかけていた。なんと言っても凛乃ちゃんは運動ができてコミュ力がカンストしている。日々を惰性で乗り越えている私の目にも映っていた。1年生と3年生では棟が違うはずなのに何故かよく廊下やトイレですれ違った。何故私が凛乃ちゃんのことを覚えていられたかと言うと、凛乃ちゃんの顔がそれはもう国宝級に良いからだ。聞いた話によると私の学年に凛のちゃんの兄がいてその人も顔が良いらしい。対人関係が嫌で、全てから退いてきた私としては、その人が誰だかなんて何一つ分からないのだが。

凛乃ちゃんはあの私に声をかけてくれた日、中学の友人に誘われて部活終わりにソフトボールをしていたらしい。いくら美術部の終了時刻が早いからと言って、何とも私には真似出来ない所業だ。帰路についていた凛乃ちゃんは偶然図書館から出てくる私を発見。その後私に追いつき冒頭の事態に陥ったわけだ。

アイドルだとかアニメだとかドラマだとかに一切興味が湧かなかった私を、「推し」の意味がわからなかった私を、恋愛もなにも理解できなかった私を、凛乃ちゃんは変えたのだ。その一目見ただけで何もかも全てを捧げたくなる衝動は何にも形容できないそれで、一瞬で凛乃ちゃんが私の生きる意義になった。凛乃ちゃんがいるから頑張れる、凛乃ちゃんがいるなら明日も生きたいと思える。凛乃ちゃんはきっと私にこんな執着じみた感情を抱かれていることに気づいていない。だから今もあの人変わらずフレンドリーに接してくれるのだ。いや、あの日よりも距離は確実に近づいているが。

この気持ち悪い汚い感情をいつか全部洗い流して胸を張って凛乃ちゃんに見てもらうことが、とりあえず直近の生きる目標である。


7/27/2023, 2:12:48 PM