#海へ
「海になりたい。」
ある日彼はそう言った
普段から陽気な彼だ。
『なれるといいね。』
とりあえず、そう言っておいた。
冗談だと思った。
星が綺麗な夜に
彼は車を走らせた。
行き先を聞くと、彼は
「海にいく。」
とだけ言った。
いつにもなく真剣な顔をしていた。
あの時、
なぜ私は、いつもの様に質問攻めしなかったのだろう。
なぜ私は、素直に聞き入れてしまったのだろう。
海沿いの高台に着いた。
ここはいつもカップルで溢れかえっていたはずだが、
この夜中誰もいなかった。
だから好都合だった。
私はこの機会を利用して、彼にプロポーズしようと
思っていた。
彼が海を眺めている
その背中に声を掛けようとした。
大好きだって、結婚しようって。
でも、それよりも先に彼は言った。
「君は来ないでね。」と
私は理解が追いつかなかった。
彼はもしかして私が告白しようとしていることを
察したのだろうか。
だとしたらとんだ嫌われ者だ。
「あともうひとつ。」
突然彼が言った。
「今までずっと好きだった。」
『…え?』
嫌われたわけじゃなかった…
よかった…
ほんの一瞬、そう油断してしまったから。
「今までありがとう。」
そう言って、彼が手を振って、海に身を投げようとしていることにも気づけなかった
バシャン
荒波の中に、彼は消えた。
私は覗き込み必死に探した。
しかし、彼の姿はおろか、
残像さえもなかった。
まるで初めから
こんな“人間”は存在しなかったかのように。
海には泡だけが残っていた。
泣き崩れる私の脳裏に
彼の言葉が蘇った。
“海になりたい”
“君は来ないでね”
手のひらから溢れた一粒の涙が
静寂の海に溶けていった。
8/23/2024, 11:17:27 AM