防波堤の脇に停めた車内に、潮騒のにおいはなかった。外の街路灯の真下、じんわりと夜の青黒いかすみに輪郭が浮かぶ。触れ合っている肩と腕の、あなたの体温がすこし熱いままだった。
ドアの内側を背もたれにして、後部座席を独占しているあなた。その薄い腹の上で、茎が十数センチ残る花がゆっくりと回ってゆく。たまに、くんと香ると、あなたは律儀に眉根を寄せて。
香らなければいいのに、とは言わなかった。
「んっ…、けっこうスパイシーな、におい」
「窓、開けましょうか」
「んーん、いい」
後部座席の段差にクッションをつめて横になっているわたくしがあなたを見上げると、花を見ていた伏し目が寄越される。腕をからめ取られたまま、あなたの頭が肩口に埋められた。
ふんわりとした細い髪がわたくしの頬をくすぐる。
あなたが手指の先でいじっている花びらは、ごく暗い紫を帯びた青色。
あの、生花独特のやわらかい繊維を薄いビニール一枚隔てて触るような、触っているのか分からない感覚。くしゅ、くしゅ、くしゅ、とあなたの指の腹が折りたたんでは開いてゆく。
「なんだか、かわいいと不気味の間みたいなお花だね。トゲもちょっとだけあるし」
「バラの色違いですよ」
「ふぅン」
ふくらみを感じさせる丸みを帯びた房咲き。この手の花はいつでもひとの気持ちを確かめたがる。
まるで、疚しさを知らないあなたのよう。
「におい、嗅いで」
「どれ」
きしり、あなたが体重をのせているシートが軋んだ。体勢を変えた四肢は肌色をこすり上げる。
鼻先にさし向けられたぽったりとした花。まざまざと見せられたそれは、街路灯に照らされるまではすっかりと車内の空気感になじんでいた。
目を細めるほどの人工色。
あなたの言う通り、むせかえるような華やかな香りがする。
茎を持てば、数少ないトゲが皮膚に当たったりもした。
「くらくらしちゃうね」
こてんと肩口から見上げてくるあなたのまぶたは、弧を描いて閉じていた。上を向いたまつげがふるりと歪み、わたくしを正確に捉える。
さっきまでせわしくしていた手指も、居心地を確かめていたつま先も、シートの上でだらりと力が抜けていた。
ゆっくりと上下する息。
背を預けているドアの外からは、防波堤にぶつかる波の音がしている。ザザン、ザザン、激しくぶつかって、防波堤を壊したならば、わたくしたちはひとたまりもない。
ひとたまりも。あなたもろとも、きっと。
あなたの耳許に唇を寄せる。
「疲れました?」
「んぅ…、んんっ」
ぐずるように唇も尖らせたあなたは、緩慢にまばたきをした。
「シャワー、めんどう…くさい」
「いいですよ、少し眠れば。どうせ近くに銭湯もありませんから」
まぶたがゆるりと閉じる。寝入ってしまう。
わたくしの腕に絡んでいたあなたの腕が垂れて、シートの上に横たわる。その手のひらはわたくしの肌をたどって、手指をからめてつないできた。
骨張った手指。
もう力はそれほど入っていなかった。
食欲が前ほどわかないのは、誰のせいか。
見えない海が、激しく波を高くしてぶつかってくる。
あなたの体温が移ってくると、いつも思う。
ぽそりと唇の先だけであなたがぽそぽそ、言葉を車内に落としてゆく。
「あのね、窓、開けちゃだめ」
「えぇ」
「手もはなさないで。ぎゅって」
「もちろん」
ザザン、ザザン、ザザン――――……
「波のおと、すごいね」
「眠ってしまえば気になりませんよ」
「……きみも?」
「あなたも」
「ん、ふ……」
息遣いも気配も小さくなって、潮騒だけが残る。
輪郭と体温だけの車内で、白んでゆく空をまた、見ることになるのだろうか。
それとも、このまま――――、
#Midnight blue
8/22/2025, 11:41:52 PM