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愛について一度真剣に考えたことがある。
ただの感情か、脳に染み付く一種の機能なのか、本能的なモノなのか。ある人は感情だといい、またある人は本能から来る欲求だと言った。

僕には未だ愛は理解ができない。

そんな生産性も何も無い日々を過ごしていた時、ある少年と出会った。彼の性格は酷いもので、傲慢無礼を擬人化したような見下した態度で僕の目の前に現れた。金が無いからって時給が高い家庭教師なんて選ばなければよかったと後悔したのを覚えている。
こんにちはと挨拶しても腕を組んで机に向かったまま黙り込む少年に、母親は苦笑しながらよろしくお願いしますと部屋を出ていく。二人きり残された空間はとてつもなく気まずくて、何を話せばいいのか分からなかった。
母親いわく、この少年は類稀なる天才らしい。なら何故家庭教師を募集したんだと疑問に思っていると、察したらしい母親が言いづらそうに話してくれた。
「あの子は、友達を作らないんです。自分以外は馬鹿だから話してもつまらないって言って、私の話も聞いてくれなくて 。なので年上の頭の良い人となら少しは会話するんじゃないかと思ったんです。」
だからあの子をよろしくお願いします。頭を下げた母親に無理だろというのが一番の感想だったが、息子の為に必死になっている姿にそんなこと言える訳もなく。分かりましたと言った僕は馬鹿だった。

「は?そんな事馬鹿でもわかるよ。」
少年と話している内に分かったことは、この子はどうしようもないほど傲慢な性格を持っているということ。一週間に二回、毎回根気強く話しかけている僕の気持ちなんて知らぬ存ぜぬで少年は僕をあしらった。先程話した大学の講義内容も、冒頭の言葉でシャッターを閉められる。まったく、生意気なクソガキだ。

そんなある日のこと。部屋で話していて何の進展もない僕達を見かねた母親が、少し散歩をしてはどうだろうかと提案してきた。家庭教師が散歩…と愚痴は呑み込み、行こうかと笑えば無視される。この子と親しくなんて無理だと思うんだけど。
歩くこと数分、近所の公園で一休みしようとベンチに腰掛けているとある外国人が困惑した表情で公園に入ってきた。キョロキョロと忙しなく周りを見ており、困っていることがよく分かる。見逃すのは流石に心が痛いので、仕方ないと立ち上がり近づいてみる。僕の存在に気づいた外国人は、焦ったようにカタコトの日本語を話した。
「ワタシ、ミチ、ワカラナイ、タスケテ。」
落ち着いてくださいと英語で話しかければ、意味がわかったようでコクコクと頷いた。英語は大丈夫ですかと首を傾げれば、彼は安心したように流暢な英語で返してくる。
僕は昔から外国語を親に英才教育されており、英語はもちろん、フランス語や中国語、ロシア語など幅広い言語を学んでいた。正直小さい頃は嫌で仕方なかったが、こういう時にやっててよかったと実感する。
外国人はどうやら道に迷っていたようで、ホテルまでの道のりを教えると顔を輝かせて感謝を述べてくれた。楽しい観光旅行を。という言葉を最後に大きく手を振りながら彼は公園を出ていく。
手を振り返してから時計を確認すると、もうとっくに家庭教師をする時間は過ぎていた。早く帰らなければ少年の母親が心配するだろう。
帰ろうかと呼びかけながら振り向くと、かなり驚いている少年と目が合った。目を見開いて、口も少し開いたまま唖然としている彼に、大丈夫かと声をかけた瞬間。少年は今までの態度からは想像できないほど楽しそうに、興奮した様子で僕の元に駆け寄って
「すごい!すごい!お前、英語話せたのか!」
と僕の腕を掴んで目を輝かせた。本当に同一人物かと疑うほどの舞い上がりっぷりに少し照れてしまう。言語で褒められることなんて滅多になかったから。
「明日から英語を教えてよ!俺もお前みたいに流暢に話せるようになりたい!」

それから少年と仲良くなるまで時間はそれほどかからなかった。毎日頑張って単語の発音を一緒に練習するのは自分としても復習が出来て良かったし、英語で会話をすると途端にいつもの傲慢さを無くす少年が面白かった。少年の母親もこの事に安心したようで、毎回のようにありがとうございますと笑ってくれる。

家庭教師の期間が終わってからも、少年の我儘によって関係は継続されていた。小学生だった彼がもう高校生だという事実に驚きながらも、自分も社会人として頑張らなくてはと奮闘することが多い。一度も先生とは呼んでくれないけれど、まぁそれも彼らしくて良いだろう。今では英語だけではなく、フランス語の習得を目指しているようだ。あの日から尊敬し、慕ってくれている少年、僕はそんな彼を不思議な感情で教え、見守っていた。

が、それは突然終わりを迎える。

不慮の事故だった。横断歩道で久しぶりに会った少年と話していた僕は、居眠り運転をしていたトラックから逃れることはできなかった。少年だけはどうしてもと、強く突き飛ばしてしまったのは悪かったと思ってる。トラックに引かれる寸前に見た驚いた彼の表情が、前に公園で見たものとは全く違くて。あぁ、あの表情は驚きではなく自分の出来ないことをできた人物へ期待する表情だったのかもしれないと、関係ないことを考えてしまった。

自分のお葬式は、見たくはなかったけれど少年が心配で少し覗いてみることにした。自分の死を目の前で見せてしまったということの罪悪感から僕は幽霊になったのだろうか。ふよふよと安定しない自分の体にイラつきつつも、葬式に出席してくれている少年の様子を見守った。彼は俯いたままで何も言わず、黙ってお経を聞き、線香をあげ、席に着く。その後も何のリアクションも起こさない少年に僕は杞憂だったな。と少し、いや、かなりショックを受けながらその場を離れようとした。
「……今までありがとう。先生。」
聞き間違いだと思った。葬式が終わり、次々と移動する人達の奥で、棺の目の前に立ち、少年は小さく確かにそう言った。涙を流しながら、母親に背中を撫でられながら泣く少年。どうしようもない感情が今は無い胸を熱くする。
「お、れは、貴方の、自慢の生徒に、なれた?」
肩を震わせて手で涙を拭う少年を、この腕で抱きしめたくて。地面なんか蹴れないけれど、走り出した。
少年に伝えたくて、君は僕の大事な教え子だって。
君は僕の教えを求めてくれた唯一の少年だったと。
この腕で抱きしめた彼に叫んで言い聞かせたかった。
でも、この透けた腕が、この音にならない声が、それを拒んだ。ダメだ。お前は死んだんだ。そう証明するように、自分の声に少年は全く反応しない。
柄にもなく焦って、少年の肩を掴むように手を伸ばし、それがすり抜けた事実に衝撃を受ける。分かりきっていたことでも、無いはずの心臓がドクンと大きく脈打つ程には酷い悲しみが僕を襲った。
どうして僕は彼と喋れないんだろう。どうして彼に伝えたいことを伝えられないのだろう。今まで楽観的に見ていた自分の死を、その時初めて後悔した。
泣き続ける少年の姿が痛くて、泣かないで欲しいと願う。手で強く涙を拭う少年にそんな強くしたら痛いだろうと世話を焼きたくなる。
その時、昔考えていたことの答えが突然頭に浮かんできた。
愛とは、こういうことだと。人によって愛は違うから、これが正解だということは無いけれど。それでも自分の愛の答えはこれなんだと。再び受けた衝撃に、目から何かが溢れる感覚がした。
傲慢無礼なあの少年は、今や青年と呼べる歳になっている。それでも尚まだガキだなと考えるのは、親に似た不思議な愛だろう。
あぁ、なるほど。少年、僕は君に英語やフランス語を教えたけれど、僕は君に昔の問の答えを教えて貰ったよ。

『君は僕の自慢の生徒だ。少年、今までありがとう。』

僕の言葉は宙に浮かぶことすらなく、儚く消えた。

4/15/2023, 12:49:02 PM