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   *

 足の感覚が鈍い。それでも止まることはできない。
 私はただひたすら暗くて狭い通路を走っている。
 かなりの距離を走っているはずなのに、この通路の先は真っ暗だ。周りの景色も変わらず、通路という割に一人が通るだけでいっぱいの広さしかない。壁に触れるとサラサラと指の間を土が流れた。凹凸の激しい土壁が、果てしなく続いている。
 一体どのくらい経ったのだろう。先が暗くて見えないというのは、まだ大した距離を走っていなく時間もさほど経過してないのか。もしくは数時間も走り続けているのか。
 振り返りたい気持ちはある。どのくらい走ってこられたのか、とても気になる。
 私は思い浮かんだ一瞬の迷いを、頭を振って追いやった。



「逃げて!!」

 知らない男たちに銃口を向けられた。あまりの恐怖に体が硬直した。
 そんな私の体をドンと、半ばタックルするように全身使って突き飛ばしたメイドのルナ。常日頃から私のそばに控えていたから、私を咄嗟に守ってくれたのだ。
 そろりとしか動かない私に、ルナは叱咤した。

「決して振り返ってはなりません! とにかくこの屋敷から外へ! 早くっ早く走って、お嬢様!!」

 ルナはほとんど悲鳴に近い、甲高い声で叫んだ。私はハッとして一度だけルナを見やった。ルナに説教されることは今まで何度だってあった。可愛らしい二重の目元を釣り上げて怒る姿は本当に怖い。私の身に悲しいことが起これば私以上に泣き喚き、私にとって嬉しいことがあれば両手で喜び大はしゃぎした。
 そんなルナが絶望に顔を歪ませながら、それでも口角だけ上げていた。私を見て、目を合わせて頷いた。
 私は部屋着の丈の長いワンピースを両手で持ち上げ、駆け出した。

「おい、逃げたぞ!」
「女だ、追え!」

 後ろから迫る恐ろしい声。鳴り止まない銃声。私を追っている足音。
 屋敷のそこらじゅうから悲鳴が聞こえる。その悲鳴が誰なのか、わかってしまう。本当は戻りたい、駆け寄りたいところを、グッと奥歯を噛み締めて我慢した。とにかく一刻も早く、この状況を打破しないと。
 階段を駆け下りて一階へ辿り着くと、目の前に怪しい男たちと対峙するアルお兄様とルーお兄様がいた。二人は取り囲む怪しい男たちの輪の中心で拳銃を手にして、背中合わせに立っていた。
 思わず立ち止まってしまった私に、追っ手の男たちが追いついた。

「女! 大人しくしろ」
「いったぁ!」

 すぐそばまで迫られていて、肩を掴まれた。こめかみには銃口を向けられている。私はあまりの馬鹿力加減に驚いて声を上げた。
 すると、すぐそばでドカッと音が鳴り、その痛みはあっという間に消え去ったのだ。ほんの一瞬の出来事に呆然としてしまうと、私の手が強く引かれた。

「こっちだ、フィア」
「ルーお兄様!」

 どういうわけか怪しい男たちの輪の中から抜け出したルーお兄様--ルイスお兄様が私の手を引いて駆け出した。私も慌てて走り出す。ルイスお兄様はとても足が速く、ぐんぐんと追っ手を突き放し、やがて巻いてしまった。
 私たちは屋敷の一階で一番奥にある部屋へ飛び込んだ。ドアを閉めて、ルイスお兄様とソファやテーブルなどの重たい家具をドアの前に積み上げた。バリケードが完成すると、ようやく息を整えることができた。
 外の騒々しさから隔離されたこの部屋は、お父様の書斎だった。壁一面の本棚にびっしりと本が並んでいる。大きな窓の前に大きなデスクが置かれていて、その上にはよくわからない紙の束が積み上がっていた。
 大きな窓から外を覗く。この部屋は庭園に面していて、本来なら庭師が整えた色鮮やかなイングリッシュガーデンが望めるのだが、今は大荒れしていた。花は踏まれ、生垣は倒れている。庭園の中心にあったガーデンテーブルたちも、ひっくり返って壊されていた。つい先程、おやつの時間にあそこでアフタヌーンティーを楽しんだばかりなのに。
 変わり果てた庭園の姿に、怒りと悲しみを堪える。私にはあの男たちに何も仕返しができない。武術の心得はまるでないのだ。
 唇を噛み締め、拳にした手に力が入る。その私を労るように、ルイスお兄様はカーテンを閉めた。ルイスお兄様はランプを用意していて私に持たせると、私を支えながら壁の本棚へ移動した。

「小さい頃、父様に聞いたことがある。この部屋には、カラクリの扉があると。その時の目線の先にこの本棚があった」

 ルイスお兄様は片手で私を抱き寄せながら、もう片方で棚を探っていた。

「大昔、それこそお祖父様のさらにお祖父様くらいの時にこの屋敷は建てられた。その時の職人が遊び心と称して穴を掘ったと、掘り続けたと言ったらしい。入り口が見つかればあとは一直線。家出したい気分の時や奥様に怒られた時に使って欲しいと」

 ルイスお兄様はしゃがんで床に手をついた。私も釣られて一緒にしゃがみ込む。上質で肌触りのいい絨毯をなぞると、一ヶ所他の床板と違い、硬いところを見つけた。私はルイスお兄様を見た。ルイスお兄様は私と目を合わせ、頷いた。
 ルイスお兄様がナイフを取り出して、絨毯を剥がした。捲れ上がったところには、板の貼り合わせが他と異なる四角い床が出てきた。私が触れた場所にルイスお兄様がもう一度触れると、木の棒がビュンと出てきた。

「フィア、逃げなさい」
「そんな、私一人でなんて。せめてルーお兄様もご一緒に」
「僕はいけないよ。兄さんのところに戻らなきゃ」

 その言葉に私はハッとした。

「アルお兄様は」

 私が口にすると、ルイスお兄様は仕方なさそうに顔を綻ばせ、私の頭を撫でた。頭を揺らさないように、髪の毛流れに沿ってゆっくりと、優しく。

「兄さんは大丈夫だよ。拳銃も使い慣れているし、武術も心得がある。僕も兄さんほどではないけど、腕力には自信があるしね」
「でも」

 いつまで経っても不安がる私を、ルイスお兄様は正面からぎゅっと抱きしめた。ルイスお兄様の体温が心地良くて、安心する。

「大丈夫」
「ルーお兄様」
「フィア。僕たちのもとに舞い降りた愛しい子、ソフィア。どうか、僕たちの分も生きて、幸せになって」
「そんなこと言わないで」

 一人にしないで。
 私の視界には涙が滲んだ。ルイスお兄様の言葉は、今生の別れの言葉にしか聞こえなかったからだ。
 ルイスお兄様は腕を解くと、床から伸びた木の棒を思い切り引っ張った。ギギッと軋む音を立てて、床が開いた。中は暗くてよく見えないが、入り口から続く階段が敷かれているのだろう。

「ソフィア、いってらっしゃい」
「お兄様!」
「さあ早く、もうバリケードも持たない」

 私は堪えきれない涙を流しながら、大きく頷いて入り口の階段に足をかけた。本当に掘り進めただけなのか、土の匂いを強く感じる。

「ルイスお兄様」
「ん?」
「大好き」

 最後は笑えたはずだ。表情筋に力を入れて口角を上げた。ルイスお兄様の表情を確認する暇も惜しく、私は転げ落ちないよう気をつけながら地下へ降りていった。
 すぐに床の扉は閉められて、同時に男たちの声も聞こえた。もしかしたらこの地下への隠し扉を見られたかもしれない。ルイスお兄様一人の力で開けられるのだ。男たちはあっという間に追ってくるかもしれない。
 私は居ても立っても居られずに走り出した。両手でワンピースの裾を持ち上げて、いつの間にかパンプスが脱げて裸足だったが、気にせずに走った。整備されてない洞窟のような通路だから、石や岩もゴロゴロ置いてあった。
 尖った先にワンピースの裾が引っかかっても、無理矢理外した。ピリッと音を立ててワンピースが裂けた。お母様に十五歳の誕生日をお祝いしてプレゼントされた、ミントグリーンに白いレースがあしらわれたお気に入りのワンピースだった。
 それでも悲しみに暮れる暇はない。追っ手から少しでも遠くへ、逃げなくては。
 私は次から次へと流れ出る涙をそのままに、走り続けた。



 やがて走り抜けた先には、こじんまりとした土壁の部屋があった。誰かが使った形跡はない。
 私は部屋の中を探索した。といってもあまり見る場所はない。一組のテーブルとイス、ランタン、本が数冊入った棚。テーブルの上にはペンが置いてあり、本棚の本は書籍ではなく、分厚い白紙のノートだった。
 そして、入ってきた場所とは反対側にドアがついていた。私はそのドアの前に立った。札が下がっていて、そこにはこう書いてあった。

--ドアを開けると反対側の通路が崩壊する

 もし万が一、ルイスお兄様が家族を引き連れて地下へと逃れられたのなら、確実に生き埋めにしてしまう。でもどちらかというとあの男たちの方が地下へ降りる可能性は高い。私はあの男たちを思い浮かべて、恐怖の念に再び襲われた。
 あの男たちなら、どうなったって構わない。
 お父様が仕事の面で何かと対立してくる面倒な人がいると、少し前に聞いた。あまり良くない噂を耳にしていて、柄の悪い連中とも連れ立っている、そんな面倒な人。
 きっとその人があの男たちをけしかけてきたに違いない。でなければ、無実の私たち一家丸々襲撃する必要はないんだから。

 私はドアノブをギュッと握る。力を入れて、重い扉を押した。
 目の前には青い空が広がっていた。

   *

「という、大昔に冤罪をかけられて一家丸ごと虐殺されたロビンソン家の生き残りとされているソフィア・ロビンソン著『土の壁』に出てきた土壁の部屋がこちらです」
「ガイドさん、ナンパしたのは謝るから。俺、マジでそういうの苦手なんだって」
「こちらに展示されている刃物類は、ソフィアが実際に自死を図ったと推測されている貴重な資料です。レプリカですが」
「リアル事件現場苦手なんです。マジで勘弁して、ウッ」
「ちなみに封鎖された屋敷に繋がる通路ですが、現代のテクノロジーにより完全に再現することができました。トロッコを走らせまして約半日以上掛かるところを一時間以内で到着させることができるのですが、乗られますよね?」
「辞退で」
「ね?」
「いや」
「ね?」
「あの」
「ね?」
「もう、勘弁してください!!」

 そう言い残して男はルートを逆走して走り去っていった。私はふぅとため息をついて、他の観光客へ道を譲った。
 土壁の部屋は数百年の時を経て発見された。この部屋の最期の住人だったソフィア・ロビンソンの遺書と、かつて貴族同士の争いがあったとされる時代に起こったロビンソン家事件の真相が事細かく描かれた『土の壁』という原稿も見つかった。これにより、史実が今まで語られてきた歴史と大きくずれていたことが判明したそうだ。世紀の大発見、だとか。
 その後数年かけて整備されて、五年前に観光地としてガイド付きの見学が許可されたのだ。このツアーはこの後トロッコに乗り、ロビンソン家旧邸を改装した博物館へ繋がるのだが。
 まぁ、向こうがガイドの名札も確認せずにナンパしてきたものだから、腹が立って私がこのガイドツアーを決行してしまったのだけど。
 壁際に寄り、観光客の流れを目で追っていると、ポケットにしまってあるスマホが鳴った。

「はい、アンナです」
「アンナちゃ〜ん! 事情は聞いたんだけど大丈夫?」

 気の抜けたツアー長の声に、思わず肩の力が抜けた。

「大丈夫です。お客様帰ったんで、そっち戻っていいですか?」
「もちろん、また次のお客様も来るからよろしくね! あっそんな急がなくても大丈夫だからね、気をつけて戻っておいで」
「はい、ありがとうございます」

 電話を切って、スマホをポケットにしまった。私も来た道をのんびり戻ることになり、ゆっくりと足を動かす。
 土壁の部屋から出ると、毎回眩しいと思って目を瞑ってしまう。雨でも曇りでも嵐でも。土に囲まれた窓のない部屋に比べれば、どこも明るいのだ。

「とっておきのエピソード、話そうと思ったのに」

 私の呟きは、誰にも届かなかった。

 ソフィア・ロビンソンは、七十五歳という大往生で亡くなった。死因は老衰で、あの時代においては長寿の部類だ。
 生きて幸せになる、という兄・ルイスとの約束の元、ソフィアは青空の下へ踏み出した。
 そこからはソフィアなりに幸せの形を模索することになる。三度の結婚は、どれも長く続かなかった。だが子どもの親権は三人ともソフィアにあり、家族四人で細々と暮らしていった。
 やがて子どもたち全員が巣立ち、一人になった時にかの事件の詳細に食い違いがあることに気がついたのだ。
 こんな勘違いの末に生まれた悲劇を繰り返してはならない。
 そう強く思ったソフィアは筆を取り、執筆に取り掛かった。身を削るように書いた原稿を手に出版社へ持ち込んだが相手にされず妄想だ、病気だと揶揄された。
 途方に暮れたソフィアは、例の土壁の部屋へもう一度行ってみた。自分の出来事は妄想だったのか、確かめに。
 果たして、ソフィアの想像通り、土壁の部屋は当時のまま綺麗に残っていた。途中険しい山道と、今にも落ちそうな吊り橋を渡る羽目になったが。
 部屋の中に入り、壁をなぞる。土の少し湿っていて、細かい粒子が手から溢れ落ちるあの肌触りに変わりはなかった。屋敷から逃げてきた通路は、土壁に埋もれていてどこだったか分からないくらいだった。
 やはり妄想じゃない。でもどうやって証明しよう。
 ソフィアは考えた。誰か一緒に連れて行こうにも自分はもう体が衰えてきた。子どもたちに託すわけにもいかない。ロビンソン家の呪われた名は、私で途絶えさせるべきだ。
 なら、ここに原稿を置いていき、いつか探検家の手によって発見されれば、この原稿の正しさが伝わるのでは。

 そしてソフィアの思惑通り、歴史探検家によって発見されたのだ。
 普通は思いついてもなかなか実行できないはずだ。いつ発見されるのか予想がつかない。発見されても揉み消されるかもしれない。大災害に襲われたら、あんな部屋あっという間にペシャンコになる。
 そういったリスクがあってもなお、ソフィアは未来に賭けたのだ。そして、賭けに勝ったのだ。

「ホント、心が強い人だよ。曽祖母様は」

 土壁から青空を見上げた時、ソフィアはなんと思ったのだろう。聞いてみたいところだが、曽祖母様であるソフィア・ロビンソンは、私が生まれて半年経たずに亡くなったそうだ。

「名は残ってないけど、幸運の血は絶やさないようにしなきゃね」

 私はきちんと整備された道を踏みしめる。私は私なりの幸せを探して。


『未来』

6/18/2024, 5:58:19 AM