わをん

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『ゆずの香り』

年末が近づいている。仕事が終わらない。年末進行という便利な言葉と今年の仕事は今年のうちになどという誰かの安易な考えで先週の2倍、いや3倍ぐらいに業務が増えているのだ。愚痴を言ってもやることが減るわけでもないので黙々と片付けていると気がつけば広いフロアで照明がついているのは私のシマだけになっていた。残っているのは私と上司だけ。なんでこんなにがんばっているのかとぼうとした気持ちになっていると、上司に呼ばれる。
「君、残業何連目?」
「えっと、先週月曜からずっとです」
「がんばってるねぇ」
「やらないと終わらないので……」
「まぁでも、きょうはもう帰りなさい」
「え、でも」
「いいからいいから」
上司は引き出しをガサゴソと探るとこれあげると言って個包装の入浴剤を差し出した。
「ゆずの、香り」
「きょうはひとっ風呂浴びて暖かくして寝なさい」
「でも私シャワー派なんですけど」
「ええっ?最近の子はそうなのかぁ」
時代だねぇなどと言って額をぺんと叩く様子にふと笑ってしまう。上司がたまに見せるこの仕草がなんとなく好きだった。自分に対しては初めてされた気がする。
「でも、そこまで言うならひとっ風呂、入ってみます」
「うんうん。お風呂と睡眠は大事だよ」

家に帰ってまず浴槽の掃除をしてそれからお湯を貯めた。湯加減がわからず少し熱めになったお湯に個包装をぴりと破いて入浴剤を投入すると、シュワシュワという音とともにお湯は黄色く染まっていき、柑橘系の香りで浴室が満たされていく。浴槽に体を沈めていくとシャワーでは味わえないぬくもりに思わず声が漏れた。
「お風呂、すごいな……」
漂うゆずの香りを胸いっぱいに吸って吐き出す。小さな頃から風呂は面倒くさいものだと思っていた。ひとり暮らしを始めてからは水道代の節約ということにしてシャワーで済ませていたけれど、お風呂派に転向するのはあり寄りのありだと思うぐらいの体験だった。そして言われた通りに湯冷めをしないうちにふとんを敷いて潜り込むといつもはなかなか訪れない眠気にすうと引き込まれる。お風呂派にまた一歩近づいてしまう。
おつかれさまと言って送り出してくれた上司はまだ残っているのだろうか。さすがに帰っただろうか。明日会社でお礼を言わなければ。つらつらとそんなことを思いながら、いつしか眠りに落ちていた。

12/23/2023, 12:36:14 AM