『冬へ』
早朝の空気が肌に触れると、ツンと刺す痛みを感じるようになった。
日中はまだ暖かくて心地いい。
イヤーマフ、手袋、マフラーと防寒具を出してみたが、いざ身につけるとなると少し躊躇した。
いざというときにすぐ使えるようにと、ニット帽とカイロケースも取り出す。
一度クリーニングにでも出してから数日、様子を見てみるか。
冬の小物類を全て紙袋に突っ込み、玄関前に置いた。
ちょうどそのタイミングで最愛の妻が帰宅する。
「ただいまーっ」
「おかえりなさい」
ぴょこぴょこと黄色のハンカチで飾った小さなポニーテールを上機嫌に揺らした彼女は、紙袋に目を向ける。
「なにか買ってきたの?」
「ご期待に添えずすみません。俺の私物をクリーニングに出そうかと」
「もうそんな時期か」
「ついでに出したい服があれば出してきますよ?」
「え? 私の夏物とコート類はそっちが勝手に全部出してたじゃん」
大きな瞳が、紙袋から俺に移った。
不思議そうに瞬きを繰り返す彼女に対して、俺は眼鏡のブリッジを持ち上げる。
「靴下やハンカチといった小物類はまだ出せていません」
「そこまではしなくていい」
「そうですか」
顔を渋くする彼女に、俺は聞き分けよく引き下がる。
俺としても彼女の匂いがかき消されるのは冗談ではないので、願ったり叶ったりだ。
「あっ! でも、あれ! ハム!」
「ハム?」
なにかを思い出したのか、彼女が顔を上げて距離を詰めた。
仕事後の興奮を引きずっているのか、いつもより距離が近いし、圧も強い。
きらめきの残り火を間近で目の当たりにして目がくらんだ。
黄色のハンカチと一緒に跳ねる小さなポニーテールを崩そうとしたとき、彼女は無邪気に白い歯を見せて破顔させる。
ドォォォッ!
心臓を銅羅のごとく強く叩かれるのは今に始まったことではないが、こればかりはいつまで経っても慣れるものではなかった。
胸を押さえてうずくまる俺とは打って変わり、彼女は小慣れた様子で話を進める。
「ハムの着ぐるみっ」
あぁ、アレか。
声を弾ませてテンションを上げる彼女はかわいい。
ハムの着ぐるみというのは、ハムスターの着ぐるみパジャマのことだ。
去年、ディスカウントショップに行ったとき、彼女に似合いそうだと思って、つい衝動買いをしてしまったのである。
「あれ、そろそろ着たい」
えぇぇ……。
あれを着た彼女はかわいいけど、完全に夜がそういう雰囲気ではなくなるんだよな。
着せたら光属性の聖獣ができあがるから、かわいいんだけど。
とはいえ、好きなものに包まれている彼女はかわいいから、あっさりと絆されてうなずいた。
「わかりました。ついでにハムのぬいぐるみスリッパも出しておきます」
「やった!」
先ほど触れ損ねた小さなポニーテールに触れる。
細くて柔らかな青銀の髪に絡まないように気をつけながら、黄色のハンカチを解いた。
そのハンカチを彼女の小さな手に握らせる。
「それよりも、先に風呂に行ってください。飯、やっときますんで」
「ありがと。今日のご飯なに?」
「寒くなってきたので、汁物をおでんにしました。具材は卵と大根と豆腐のみですけど⭐︎」
「ブーッ」
わかりやすくむくれた彼女に、声をあげて笑ってしまう。
「あなたの好きなコンニャクと根菜類は明日の朝に回しますよ。メインは白身魚のバジル調理されたものが安く売っていたので、そちらを。デザートはキウイです」
おでんをお預けしてしまった代わりに、メインとデザートは彼女の好きな食材で揃えたつもりだ。
俺の思惑通り、彼女目がうれしそうに輝く。
「今日もおいしい!」
「その言葉は、食べてから聞きたいですね?」
髪ゴムもほどき、はらはらとポニーテールが崩れた。
軽く髪をすけば、くすぐったさそうに肩を捩る。
緩やかになっていく彼女の動作に見惚れながらも、彼女の荷物を受け取った。
「お風呂してくるね」
黄色のハンカチを行儀悪くブンブンと振り回して、俺の横を通り過ぎる。
その幼い仕草にフッと息をこぼして見送った。
「ええ。いってらっしゃい」
またひとつ、季節が進んでいく。
冬、特に年末は彼女の牙と爪が剥き出しになる時期だ。
移ろう季節を大切にする彼女が、この時期だけは闘争心を隠さずに濃い赤色を差し込む。
クリーニング行きの紙袋には、濃く、鮮やかな赤色のハンカチが数枚、覗いていた。
彼女の匂いが消えるなんて、冗談ではない。
その気持ちに偽りはなかった。
しかし。
彼女にとって、今年を締めくくる集大成。
そこに、去年の闘争心は必要ないはずだ。
11/18/2025, 6:56:31 AM