よあけ。

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︰やわらかな光

何もありませんでした。知的好奇心があるわけでもなく、頭を使うのが好きなわけでもありませんでした。嫌でも考えなければ、知識をつけなければ、理解できなければ、生きるか死ぬかの窮地に追い込まれていた、ただそれだけでした。


学芸員になりたかったんだとはにかむあなたを見て「ああ、なんだ、やはりあなた“は”そうなんだ」と、ようやく腑に落ちた。

私は美術館に行くことが特別好きなわけではなく、むしろ退屈であったと確信した。別に好きでもなんでもなくて、興味があったわけでもなくて、ただあなたについて行っていただけだった。あなたがじっくり絵を一つ一つ見ている時間も、遅いなあとしか思っていなかった。暇だった、楽しくなかった、分からなかった。

一人で美術館に行くこともあった。一目で好きじゃないと思ったらさっさと飛ばして次の絵を、次の絵を、次の絵を求めた。気に入った絵だけをじっといつまでも見詰めることは楽しかった。楽しかった、と思う。

「せっかくチケットを手に入れたのに全てじっくり見ないだなんて勿体無いことを」「芸術が分からずつまらないとしか思えないお前の心がひどく乏しいだけだろう」

絵を見るために並んでいる人たちをどんどん飛ばしながら、きっと誰かはそう思って私を咎めるのだろうと想像した。その通りだ、イマジナリー世間様。私が思い描く正しいと信じて疑わないイマジナリー世間様。ああ鬱陶しい、どうしていつもあなた方のほうが正しいのだろう。

人だかりができている本日の主役を横切ってから、先程一瞥した絵画が妙に脳裏にちらついて踵を返す。気になっていたものは少し戻った角に展示されていた。

バターナイフを持つ少女。左奥にある窓から光が差し込み、そのやわらかな光に包まれた少女は左手を自身の膝の上へ、右手にはバターナイフを持ち、目の前の皿に載ったバケットを見詰めている。幼さ特有のふっくらとした頬、右目の長いまつげが控えめに輝き、内に巻かれたボリュームある栗色の髪が絵画全体の柔らかさを際立たせている。しかし目の前の皿には少女の影が落ち、バケットはくたびれ、しおれている様に見える。そんなバケットを冷たい目で見下ろす少女。柔らかな少女の雰囲気に似付かわしくない、光の宿っていない硬い瞳。

美しいと思った。思って、本日の主役絵画の前にできた人だかりを思い出して、辟易した。この絵画に人だかりはできていない。

この気持ちは寂しさだと思う。孤独感というやつだった。「自分だけがこの絵の良さを理解できているんだ!チラシに載っている目玉しか見れないような凡人共とは違うぜ!」などと、虚勢ではなく心から思えるような人間だったら良かったのだろう。思えなかった。

私は実に我侭だったのだ。己は興味のない絵画をすっ飛ばしていくというのに、自分が好きだと思った絵画を誰もじっくり見ていないときには心にじっとりとした何かが巣食うなどと。

そうして思い出すのだ。すべての絵画を余すことなくじっくり、爛々と目を輝かせながら見て回る、あの人を。学芸員になりたかったんだとはにかむあの人を。

あの人はただの知的好奇心だと言った。ただ面白くて好きだからだと言った。だから全てを目に焼き付けたいのだと。それこそ真の意味での誠実さだと私は思う。私のような適当な人間ではなく、目玉しか興味のない人間ではなく、あなたの様な心が、芸術に対する誠実さだと。

芸術なんて語り始めれば派閥が生まれ争いが生まれ果てに辿り着くのは主義主張の押し付け合いだ。なるべく「みんな違ってみんないい」であってほしいと思うが、全員が全員そうではないので、芸術とはなんたるかという話をしたいわけではない。しかし、しかしだ、私は、芸術に誠実でありたかった。私の理想はそうだったのだ。そうであってほしかった。そちらのほうが美しいと思っていたから。


駄目でした。どうも気後れする。何故か理由は分かっています。私が、本当はどうでもいいと思っていたからだと思います。興味なんてありませんでした。ずっと面倒くさいと思っていた。あったのは上っ面の誰かの受け売りだけ、あなたの受け売りだったのかもしれません。何かに縋り付きたかった、頭を使って考えて考えて知って知って知って理解したふうになっていなければ私が生きていけなかった、ただそれだけでした。純粋な好奇心ではありません。芸術なんてどうでも良かったんです。心からの関心など毛ほどもありませんでした。

「あなたはあなたの道を進めばいい」なんておっしゃるけれど、私は自らこうなりたかったわけでもなく、知りたくなくても学ばなければならなかっただけ、故に私はあなたと違った人間になったのかもしれませんが、ええ、ええ、本当、今私が知っていることとかクソどうでもいい。ではなくて、別に、好きで、学びたかったわけではなく、ええ、ええですから、あなたは、あなたは芸術が本当に心からお好きなのでしょう、純粋に好きなのでしょう?私は確信したのです。学芸員になりたかったんだとはにかむあなたを見てようやく腑に落ちたのです。「やはりそれは、あなたの夢だっただけで、私が好きだったわけではなかったのだ」と、心底安堵したのです。

私には何もありませんでした。知的好奇心があるわけでもなかった。窮地に追い込まれていただけだった。逃げ道をひたすら作っていたかっただけで、そこに純粋な心など塵ほどもなく、ただ、何かからか逃げたかっただけでした。

美術館に足を運ぶのが億劫だったことにも気づかず、芸術に心からの熱意を向けていたわけでもなく、いいえ、それだけに限った話ではありません。何事にも当てはまります。何事にも。熱意なんてなかった、好きの気持ちなんて分からない、どれも全部どうでも良くなる、あなたの気持ちがこれっぽっちも分からない。ただあるのは、焦りと不安と恐怖。正しくできなければならないという恐ろしさだけ。そして全てを投げ捨てる、だから何も残らない、空虚な

嫌?嫌じゃない、だから困ってるんだ。空っぽ人間で良かったと安堵した。あなたのような志が無い人間で心底良かったと。だってあなたのことがずっと苦手だったから。


バターナイフを持つ少女を美しいと思った。きっと共感できたからだ。空虚な人間になったことに安堵して、他人の思考から引き剥がされるようになって、ようやく私は、あの少女と向き合えるのだ。私もようやくバターナイフを持って、やわらかな光に包まれながら、くたびれしおれたバケットを見詰められるのだ。

10/17/2024, 6:03:16 AM