シシー

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「どうして泣いているの」

 その声を、もう一度聞きたかった。
 その優しさを、もう一度。


 その辺を歩いているだけのただの人間で、場をつくるための脇役にすらなれない背景。それが俺だ。
迷惑なお節介で舞い込んできたお見合いももう何度目だろうか。親兄弟が有能だったばかりにこうして何の取り柄もない俺まで舞台に引き摺り出される。名家のお嬢様ですらこの時代では最低限の拒否権は持ち合わせているのに、そんなもの俺には与えられない。かわりにトントン拍子に進む昇進と上がり続ける給料が与えられ、能力に見合わないものだけを背負ってゾンビのようにビル群を練り歩いた。

 指定されたホテルに到着する。建前上食事会ではあるが、高級ディナーが終われば笑顔を張り付けた美女がつまらなそうに俺の肩書きにすり寄ってくるのだろう。美味しい食事を台無しにするシナリオが大嫌いだ。
 でも、彼女は違った。よく手入れされた容姿とは異なり暗く濁った眼は俺と同じだった。親や周囲の人間のためだけに作られた都合のいい駒、それが俺たちの共通点で繋がりだったんだ。

 あっという間に1年が過ぎて、同棲をはじめた。家事を完璧にこなすキミは決して幸せそうには見えなかった。常に穏やかな笑顔を浮かべ、従順に振る舞うその仕草の一つ一つがよく仕込まれた動作のようで嫌いだった。最近はふとした瞬間、視界から外れる僅かな瞬間にみせる翳った表情をよく見かける。気づかないフリをするが内心とても嬉しかった。ようやく本来の姿をみることができた、と嬉しくて胸が高鳴る。まあ、そういうことなのだろう。

 ある時、帰ってきたらキミは怪我をしていた。
いつも通りの笑みを浮かべているつもりなのだろうが、俺には泣くのを我慢しているようにしか見えなかった。血が沸騰するという感覚を初めて味わった。もう2度と御免だと思う。親の用意したマンションを売り払って、あれこれ手を回して無断で転勤し、眺めのいい静かな場所へ2人だけで逃げ出した。

 認めよう、俺はキミが好きだ。
 どうしようもなく夢中になっている。

 そう自覚した日、キミを失った。
最期の瞬間にすら共にいてあげられない俺は、キミにとってどんな存在だったのだろう。たった1枚の紙で繋がったつもりになった俺を笑っているのだろうか、お揃いのリングに浮かれる俺に愛想を尽かしたのだろうか。
 なんで、どうして、キミが、キミだけが。

 裁判は終わっても、どれだけ賠償金や罰が下されても、キミの存在を埋めることなんてできやしない。謝罪なんて受け取らない、いつまでもその罪を背負って苦しめばいい。俺のように、ずっと、苦しめばいい、それが相応しい。

 戸を開ける、ただいまという、静かな暗闇が横たわる。


 もう一度、「おかえりなさい」を聞きたい。
 もう、だめなのか?




                【題:涙の理由】

9/27/2025, 2:52:53 PM