耳もとで、旅の途中の風がささやく。
「今日は、熟れた林檎のかおりを運んだわ」
「あの木の下を通ったら、美しいお姫様がいたのよ」
笑い声がくすぐったく鼓膜をゆすった。
なんだかふしぎな心地になる。
わたしは、自転車のペダルをぐいっと踏み込んだ。
「あなたは、どこへ行くの」
風がそうきいた。
わたしは答えた。
『遠い昔に生まれたところへ』
風は一度だけ、うなずいた。
そして、わたしの手をやさしくとった。
「わたしの行き先と、おんなじだわ」
「ねえ、連れていってあげる」
ふわりと身体が浮き上がって、気づけば空の上。
見下ろすと、倒れたわたしの自転車。
その向こうには、どこまでも広がる碧い海。
わたしは風にほほえんだ。
『いつかもう一度、あの自転車に乗りたいわ』
『だって、わたしはもう──』
8/14/2023, 11:35:10 AM