書く習慣:本日のお題「沈む夕日」
沈む夕日を見られるかどうかは、住んでいる場所による。
子どもの頃はかなり山に囲まれた地域で育ったので、朝日も夕日もかなり高く昇った状態のものを拝んでいた。都会では山がビルにすり替わる。のぼりたてや沈む直前の赤みを帯びた太陽を見たければ、東西の海まで出かけていくしかなかった。
今住んでいるのはまずまずの地方都市で、東西にそんなに高い山はない。
東向きのベランダで徹夜していると、だんだん紺色の夜空が青く明るくなっていくのが見える。やがて東から白んで、日の出とともに雲が金色に染まる。なんというかロココっぽさがある配色だ。澄んだ薄青と金色の空気を吸いたくなって早朝の町に出て、川沿いを歩いてファミレスでモーニングなどをキメるのもよい。
逆に夕暮れ時になると、空は私の一等好きなタンザナイトのような青紫色に染まる。茜色の雲がくっきり浮かんでいる日もあれば、全体的に金色のロココ雲になっている日もある。黄色が昏(くら)くなると書いて黄昏(たそがれ)と読むのは実に美しい言葉だと感じる。
川向こうのやや低い山々に沈む夕日を眺めていると、『遠き山に日は落ちて』という歌が思い浮かぶ。「遠くの山に日が落ちて、空には星が散らばる。今日の仕事を終えて、風が涼しくなった夕方にみんなで集まろう」みたいな歌詞だった気がする。小学校の下校時刻になるとこの曲が流れていた。一輪車がマイブームだった頃は、毎日この放送がかかるまでずっと校庭の鉄棒で一輪車の練習をしていた。
西にやや高い山があった地元では、暗くなるのが本当に早かった。夏至の頃であっても、空の色はまだ明るいのに太陽はとっくに沈んで見えなくなっていた。ちょっと外で友達とお喋りしていると、夕闇に紛れて寄ってきた蚊にビュッフェ会場にされたものだった。
今は足裏をアルコール消毒すると蚊に刺されにくくなるとかで、夕暮れ時に限らず夏場は常にアルコールウェットティッシュを持ち歩いている。
同じ季節の夕暮れであっても、時代と場所が変われば感じることも変わる。
伊勢物語に「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」(月も春も昔とは違うそれなのか。変わらないのは自分だけで)という和歌が出てくる。自分だけどこか取り残された平安トリノコシティな和歌だ。
好きな人が去った屋敷で一人、花盛りの梅と月を眺めて詠んだものである。彼女がいなくなると世界が色褪せて見える、そんな気持ちが伝わってくる。
友人がいない夕暮れに、そこまでの悲しみは覚えない。そんな薄情なところが昔から変わっていないなあと我ながら呆れてしまう、春の夕暮れだった。
4/7/2026, 3:23:16 PM