お題︰夢と現実
灯火を鎮火して
真っ黒な夜、雨が降っている。髪から水が滴り落ちて、肩から入り込んだ水が腕を伝って手のひらへ。雨水が指先から体温を奪っていた。奪った体温で温くなっては次に垂れてきた水に押し流されていく。膝まで浸かった海に、ピチョン、ピチョンと落ちる。
「こんな所にいたのか」
溌剌とした声にハッと振り返った。そこに居たのはいつものパーカーを着た兄だった。
「うーん、さみいなぁ! 兄ちゃん風邪引いちゃうよぉ」
頭の後ろで手を組んでうんと大きな伸びをして、とても寒そうには見えなかった。
なんだ、いつもの兄さんか。
ふらりと下を向いた。
雨が黒い海へ吸い込まれるのしばらく眺めていた。揺れて、揺れて、脳まで揺られている。
遠くで響いた、くしゅん、ずびび、と身震いする気配に声を掛けた。
「ねえ」
その腕を掴もうと海に飲み込まれそうな足を持ち上げた。ふと兄の顔を見てしまった。陸の方へ進もうと何の気なしに顔を上げてしまったからだ。いつも通りの顔があった。余裕に満ちたいつもの、いつも僕の前に立って、いつもの、いつも、あれ――――マズい。何かがおかしい。黒い空に覆われて、海だって轟々と波風立てているはずなのに、兄は気楽そうに突っ立っている。僕は、僕だって、あれ、さっきまで波が激しかったはずなのに、今は水面が揺蕩っている。おかしい、おかしい。ぐるりと眼球を回して視線を下げた。息が苦しい、頭が重い、足が、重たい。苦しくて、なのに兄が着ているパーカーだけがちらちら視界に入っていることが不安で、堪らずもう一度しっかりと顔を上げた。
ただ、首を傾げているだけの、兄さん。いつもの、兄さん、は、道連れにされてくれないだろう。そういう人だ、そう、そういう。駄目だどんどん視線が落ちてしまう。
黒い海が揺らいでいる。飲み込まれそうな、もう足を飲んでしまった海に、ただ突っ立っている僕は。
兄は道連れになってくれない、だから、だから。
「――やっぱり、いい」
伸ばしかけた手を下ろした。
震える声に気づかれただろうか。恐る恐る顔を上げると兄は息を吸って組んでいた手をぱっと離した。勢いのまま服の裾を叩き、べちょ、と音を立てる。水が滴り落ちるほど雨を吸っているらしい。早くしないと本当に風邪をひいてしまうかもしれない。
「あ……服、重い、でしょ」
「ん? んー、そうだなぁ」
首を傾げたまま笑っている。目は、そんなに。
どぶ、どぶ、波の音がする。
もうすっかり腰まで海に浸かってしまった。
「寒いよ」
兄は浜辺から声をかけてくるのみで、それ以外の干渉は無かった。
「寒いよ」
兄はもう一度同じ調子で言い放った。顔を見て、また無視を決め込むために海の方を向いた。見えない地平線を眺めながら寒い、と思った。一人だから。
「ねえ」
もう一度振り返った。
「兄さん」
彼は浜辺で妖しく微笑むばかりだ。何を考えているのか僕には分からない。
「こっち、来ないの」
言っておいて聞きたくないかもしれない、なんて、自分勝手な思いが浮かんだ。
やっぱ
「……いいや」
兄は首を振った。
ピチョン、ピチョン、黒い海が広がっていく。兄と僕はびしょ濡れになってここに居るだけ。
肘まで水に浸かった頃、兄はいつもの調子でケロりと言った。
「お前今日寝巻ないよ」
寝巻、と言われて服を見下ろした。寝巻は今着ている服だった。
「……してよ」
「なんてー?」
伸びた声が波の上を滑って耳に届く。同じように波に滑らせて言ってみた。
「貸してよ」
声が届いたのか気になりまた顔を上げた。その時丁度風が吹き、髪が目に入って強烈に痛んだ。擦ってしまい塩が染みて更に痛む。見えない、暗い、分からなくなる。兄さんが見えないことが怖い、怖い。怖い、怖い、ひとりにしないで。
目、眩しい。
「ど、痛くない?」
咄嗟に手を目に近づけようとして手首を掴まれた。
「目触んなって」
「雨は」
兄の問いかけも聞かず、僕が気にしたのは雨のことだった。見上げると真っ赤な雲が浮かんでいた。火事のように燃え上がった太陽が地平線の底へ沈もうとしていた。空の赤と海の黒の境界線がはっきりと見える。
目が、頭が、胸が、燃えるようにあつい。
「行くよ」
兄は僕の手を引きながら歩き始めた。太陽を見詰めたまま足をもつれさせて歩く。そんな僕に痺れを切らしたのか兄は立ち止まった。
「あっち、行きたいのか」
遥か彼方、地平線を指しながら問う。赤く輝く、吸い込まれそうだ。ぎゅっと兄の手を握りしめ、目を逸らした。
「……いいや」
兄はニッと笑てまた僕の手を引いた。
「あ、お前今日の寝巻乾いてねーからないよ?」
ポカンとして、頭を上げて、下ろした。なんと言えば良いのか僕は知っている気がする。
「貸してよ」
「もちろん、当たり前だろ」
兄は鼻の下を指で擦って小さく笑った。
「ほら、行くぞ」
歩く、歩く。ざば、ざぶ、海が遠ざかっていく。
「夜の海は怖いからねぇ」
前を向いたままそう言って、兄は鼻歌を歌い出した。今までのこと、僕が見てきた景色を知らないかのように呑気だった。
「ねえ」
「なに」
「今日、雨降った?」
僕の手を繋いだまま兄は振り返り、まばたき一つして笑った。
「ずっといい天気だったよ」
息を呑んだ。それしかできなかった。
どぶ、どぶ、微かに波の低い音が聞こえる……気がする。
胸、焼けるようだ。
「帰ろ」
ニッと笑った顔が揺れている。ピチョン、ピチョン、水の当たる音がする。燃えるような何かが蒸気に変わっていくような感覚がした。
「――うん」
歩く、歩く。
「おはよ」
目を開けた。朝の挨拶をされた気がするのにひとりぼっちだった。酷く雨が降ったのだろう。湿気った空気と共に雨の匂いが部屋中に染みていて、ピチョン、ピチョン、雨漏りの音がする。ぼんやり起き上がりなんとなく自分の服を見てみると寝巻を着ていた。窓の外を見てみると寝巻が干されていた。それから真っ赤な雲と火事のように燃え上がる太陽があった。
「……兄さん」
声に出してみたものの返事はなく、ただ部屋に響くだけだった。
そもそも僕に兄はいない。
12/4/2023, 5:29:40 PM