"ささやかな約束"
一緒に暮らすようになって間も無い頃。
扉を開けて"おかえり"と貴女を迎えると、大きく目を見開いた貴女はぴたりと動きを止めた。
あれ、と首を傾げる僕の目の前で、綺麗な瞳がじわりと潤んでいく。
唖然として見つめる僕に、貴女は"ただいま"と掠れた声で呟いて、ぎゅっと抱きついてきた。
どうしたの、何かあったの、と慌てる僕に、貴女は顔を上げないままゆっくりと首を横に振る。
そして。
帰りたい家ってこんな感じなのかぁ、と涙声で零して、笑った。
『いってきます』『いってらっしゃい』
『ただいま』『おかえり』
『おはよう』『おやすみ』etc……。
生家ではそういった類いの会話が全く無かったから、普通の、こうしたやりとりに憧れがあったんだと貴女は言った。
一方通行の言葉と無関心、あるいは暴力や蔑み、苛立ちに塗れた家はただの檻で、空っぽの入れ物でしかなかったと。
遠い昔、頬を腫らして玄関扉の前で膝を抱えていた貴女を知っている。
家に帰りたくないと、何処か遠くに行きたいと泣いていた貴女の姿を知っていたから。
だから、ひとつ、取り決めをした。
いつだって貴女の帰りたい居場所であれるように、
その第一歩として。
どんな時も、どんなに疲れていても、たとえ喧嘩したとしても、ちゃんと互いの目を見て挨拶をすること。
それが、貴女と交わしたささやかな約束、そのひとつ目となった。
11/15/2025, 2:58:08 AM