【懐かしく思うこと】
春の縁側。
庭に咲いている小さな桜。
春風と何処からか香る花の香りを鼻いっぱいに吸い込む。
『お茶ですよ。』
声が聞こえて振り返る。
私にお茶を置いてくれるのは、何十年も連れ添ってきた家内。
『ありがとう。』
何十年前とは違ってしゃがれた自分の声。
家内は微笑み、縁側に座る。
『将道さん、もう、50年経ちましたね。』
『そうだな。』
家内は湯気が揺蕩う湯呑みを傾け、一口飲んだ。
風が優しく吹き、家内の髪を揺らす。
初めて会った時も、風が吹いている春の日だった。
『将道さん、覚えてますか。あの春の日。』
『覚えているよ。一目惚れだった。』
あの春の日。
通学路を歩いて帰っていると、道端の花をジッと見つめている家内と出会った。
少し日が傾き始めており、その茜色の夕日に横顔が照らされ、とても綺麗だった。
庭には、桜が家内に話しかける様に揺れている。
ポカポカと太陽が暖かい。
『将道さん。愛してますよ。』
『うん。知ってるよ。私はもっともっと、愛してるよ。』
私を見つめるその優しい眼差し。
細長い指、暖かい手のひら。
小柄で守りたくなるほどの小さな背中。
全部、懐かしい。
私を見つめる笑いジワが刻まれた優しい眼差し。
シワが目立つが、暖かい手のひら。
今では私の方が小さくなったが、今でも守りたくなる小柄な背中。
全部、愛しているよ。
『将道さん、、私を一生守るって言いましたよね、。』
人はいつか死ぬ。それはわかっている。
『何で、、最期まで、私を守ってくださいよ、、』
でも、貴方は、、嘘吐きです。
呆気なく、あんなにも呆気なく。
葬儀や遺産やらで貴方の死を悲しむ暇はなくて、今になって涙が溢れて止まりません。
腰が軋むのを感じながら立ち上がり、愛する人の遺影に近づく。
笑顔で笑っている、"あの時"の将道さん。
眩しいほどの笑顔で笑ってくれる太陽の様な顔。
ゴツゴツとした力強い手。
逞しい体躯はいつも、私を守るためにあった。
全部、懐かしい。
今でも変わらぬあの眩しい笑顔。
シワシワだけど、いまだに力強い手。
細くなった体には、まだ若い頃の体躯の名残があった。
全部、愛しています。
『これからも、懐かしいって思いながら余生を生きますね。』
『ああ。守れなくて、ごめんな。』
遺影に静かに手を合わせる老婆に向かって、桜が小さく揺れた。
10/30/2023, 11:11:15 AM