むかし、とある寒村にアイザックという農夫がおり、一人息子のノエルと慎ましく暮らしていた。
この村では、春の訪れとともに原因不明の疫病が
流行し、毎年多くの死者を出すのが常であった。
妻マリアもまた病魔に蝕まれ、
若くして命を落としたのである。
まだ母に甘えるべき年頃であったにもかかわらず、
決して寂しさを見せずに、周囲の人たちに明るく
接するノエル。そんな息子の存在は、
アイザックにとって唯一無二の宝であった。
ある日、村に黒い祭服を纏った美しい青年が現れた。ドミニオと名乗る青年は、疫病に苦しむ子どもの額に手をかざし、たちまち癒してみせたのである。
それから瞬く間に、ドミニオは村人たちの心を
掌握していった。
彼が触れれば病が癒え、彼が祈れば痛みが消える。
村には彼のために白い聖堂が建てられ、
人々は彼を救世主として崇めるようになった。
しかしアイザックだけは、ドミニオに対して
形容しがたい違和感と嫌悪を覚えていた。
「神はお子をお選びになりました。
ノエルは神子として聖堂に迎えられます」
ある日、白い衣の信者たちが彼の家を訪れ
そう告げた。重要な役目だという言葉に、
ノエルは目を輝かせて父に行きたいとせがんだ。
意気揚々と手を振る息子の後ろ姿を見送りながら、アイザックの胸には名状しがたい不安が渦巻いていた。
果たしてこれでよかったのだろうか?
息子が聖堂へ行って一週間が過ぎた頃。
深夜、扉を激しく叩く音で目を覚ました。
戸を開くと、血塗れの男が転がり込んできたではないか。「神よ、どうか、お許しを……」
男はそれだけ言い残すと、言葉半ばで息絶えた。
直後、白衣の信者たちが現れ、我が物顔で家に入ってくるや否や、男の遺体を運び出していった。
「彼は神の愛を受け入れられなかった。
哀れなことです」
信者の冷たい言葉に、アイザックはぞっとした。
ノエルは無事なのか。自分の知らないところで、
何か恐ろしいことが行われているのではないか。
翌日、聖堂の門を叩いたが面会は許されなかった。
せめて、ほんの少しだけでも息子の顔が見たいと
頼み込んでも、門前払いされる始末。
こうなれば、手段は選んでいられない。
満月の夜、アイザックは聖堂へ忍び込んだ。
月明かりを頼りに長い廊下を進んでいると、
どこからか歌声が聞こえてくる。
半開きの扉の隙間から中を覗くと、
祭壇の上にノエルがぐったりと横たわっていた。
「さあ、神の恵みを受けよ」
ドミニオが金の杯を掲げ、信者たちも一斉に飲み干す。次の瞬間、信者たちは吐血し、苦悶の表情を浮かべながら喉を掻き毟った。そして白い靄が彼らの口から立ち昇り、ドミニオの身体へと吸い込まれていく。
「嗚呼、信仰とは何と甘美な味わいか」
アイザックは悟った。あれは、人間ではない――。
人の絶望を喰らい、神を騙る怪物だ。
「息子を返せ!」
怒号と共に祭壇へ駆け寄り、息子を抱き上げると、口から血を流し白目を剥いた信者たちの間を掻き分け、裏口から外へ飛び出した。
繋いでおいた馬に飛び乗り、闇を裂いて夜を駆ける。
すると腕の中でノエルがかすかに目を開いた。
「父さん……」
「もう大丈夫だからな、ノエル」
だがその言葉の直後、馬が激しく嘶き、アイザックはノエルを抱えたまま地面へ投げ出された。
朦朧とする視界の中、ノエルが覚束ない足取りで
森の奥へと歩いていく。
アイザックは必死に手を伸ばすが届かない。
そのまま意識は闇へと沈んだ。
――
気がつくと、アイザックは祭壇の上にいた。
体は鉛のように重く、動かない。
周囲を取り囲むは白い服の信者たち。その中には、
虚ろな笑みを浮かべるノエルの姿もあった。
「ノエル!しっかりしろ!」
「無駄ですよ」
ドミニオが祭壇へとゆっくり歩み寄る。
「彼らは皆、私の中に還ったのです。心も、魂も」
冷たい手がアイザックの頬を撫でる。
端正な顔に浮かぶのは、村人たちに向けていた
慈愛の表情とはまるで違う、歪んだ笑みだ。
「あなたは選ばれし者。神の伴侶として、
永遠に私と在りなさい」
信者たちは一斉に手の甲を合わせ、
拍手を打ち鳴らした。乾いた音が白い壁に反響する。
ノエルもまた、笑いながら手を叩いていた。
「これからあなたに祝福を授けましょう」
ドミニオはそう囁くと、アイザックの乾いた唇に、
優しく接吻を落とした。
お題「祈りの果て」
11/14/2025, 12:00:25 AM