堕なの。

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【泡沫の夢に】

「あら、今日の香水はいつもと違うのですね」
「ええ、内緒ですよ」

香水の名前は濁して答えた。この香水は、ホワイトリリーだったから。何処で移ったかしら、なんて考えるまでもない。ここまで上手くいくなんて考えもしなかった。

「では、急いでいるので」

社交辞令の笑みを浮かべて、其の場を足早に去った。欲を言えば、なんていくらでもあるけど、其れが叶わないことは私が一番分かっていた。解っていたから。

家に戻って荷物の準備をして、持って行けるだけ詰めたキャリーケースを窓から放り投げた。ゴトンと大きな音がして、傷ついたかもと一瞬焦るが、これからは気にしなくていいことを思い出して自嘲した。

「涼花、お勉強の時間ですよ」

部屋の外から母の声が聞こえる。怒りが滲んでいる気がして、ああ、いつものか、なんて思った。もう其れにも怯えなくて良いのだ。

「今行きます」
「頼みますよ」

呆れたような母の声に、行くわけないと心の中で悪態をついた。口にできるほど強くは無いから。

窓から近くの木に乗り移って、急いで地面まで降りた。ここからは、私が見つかるのが早いか、逃げ切るのが先かのスピード勝負だった。

幼い頃は何度も木に登って怒られたが、とても役に立ったので過去の私にイイネをした。家という歪な世界しか知らなかった過去の私に伝えたかった。

キャリーケースを持って、靴を履いて着の身着のまま逃げ出す。着替えは近くのトイレでする。たぶん私に出来ることなんて其れくらいで、後は運次第だ。

街中を早歩きで移動する。偶に我が家の使用人が街に買い物に来ていることがあり、見つかると全てがパーになるからだ。

海か、崖か、川か。自然の中がいいとは思うが、見つけて貰えないのも其れは其れで嫌なのだ。

街中でホワイトリリーの香りがふわりと香って、すれ違った男の影に彼を感じた。懲りない女だと自分でも思う。仕方がないかと嗤って、

そのまま急いだ。彼の匂いも熱も覚えたまま、この泡沫の夢から醒める前に、この世界から消えてしまいたかった。


テーマ:夢から醒める前に

3/20/2024, 10:09:29 PM