紙ふうせん

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『街』

私、高校三年生のあざみが住んでいるのは、本当にうんざりするほど見渡す限り田んぼと畑しかない田舎。コンビニも喫茶店もファミレスすらない。信じられない、といつも友達と愚痴を言っていたっけ。
お店といえば、小さな商店を年老いたその家の人がやっているだけ。
あとはみんな働ける者は農業をしている。

男子で長男だと、農家の跡継ぎしか道はない。でも、次男ならいいかというと、親はやはり手広くやる為にあとを継いで欲しがる。

みんなが知り合いのこの小さな村だから、学生時代につきあっていても、三年生になると別れる子達が増える。つき合い続けるという事はその男子の家に嫁ぐ、という事だ。
それは即、農家の嫁を意味する。

みんな母親の大変さを、小さい頃から見てきているから、まず農家の嫁になろうとする子はいない。
この村には三十代、四十代の独身の男の人がたくさんいる。
好き好んで自ら一年中休みも無くひたすら働き続ける大変な生活に飛び込もうなんて、物好きな女の人はなかなか現れない。それだけ農家の仕事は過酷だから。

私を含めて大半の女子はこの村を出て就職をする。だって、ここには会社もないのだから。
私は東京のファミレスで働く事が決まっていた。まあ、人見知りしないし、誰とでもすぐに友達になれるから、あざみは大丈夫だろうと先生も言ってくれた。

私たち女子は、わざわざ隣の市まで行って買ってもらった、生まれて初めてのスマホを胸に、大海原にいかだで漕ぎ出すような不安感を抱いていた。ただ一つ良い事はこの何もない田舎から抜け出せる、という事だ。
これはやっぱり気持ちがどこか浮わついた感じがした。
雑誌で見るような街に行くんだ、とみんな期待があった。

そして四月、私は勤め先のファミレスから電車で二つ手前の駅前通りにある、少し古いアパートを借りた。
やっぱり、帰り道が怖いので明るい通り沿いにしたかったから。

支給された制服を着ると、なんだか別人みたい。みんな新しく入る子はここで研修をして、各お店に行くのだ。
仕事に必要なことで覚えることは山ほどあった。でも私は元々あまりものおじしないので、わりと早く覚えていった。実際仕事に入っても、思ったより困らなかった。だんだん慣れてくると、楽しくなってくる。失敗もあるけれど、最初だから、と気持ちを切り替え働いた。

仕事が終わるとコンビニに寄り電車に乗ってアパートに帰る。
体は疲れ、足が痛かった。立ちっぱなしだからだった。なんとか食事を済ませ、シャワーを浴びると倒れ込むように眠る。そんな生活をしていたある日、チーフから「今日はお給料日なのでお昼休みにでもおろしておきなさい」と言われた。

私も初めてのお給料日なので、もらったお金が多いのか少ないのか、全くわからなかった。とにかく家賃分を残して、あとはおろした。
うわ!初めての働いたお金だ!
なんだか重みがある。一ヶ月がんばった証だもの。

母から家を出る前の晩に、お父さんには内緒だよ、と言ってけっこう入った通帳とカードを渡された。見ると私の名前になっていた。この時のために苦労して貯めたお金だろうに。小さな声で「お母さん、ありがとう」と言った。

今まではそこから少しずつ使っていたが、私はちゃんと貯金もして、あとのお金で暮らしていた。

初めてのお給料日の後、同期の美咲ちゃんがあざみちゃん、まだ東京知らないから案内してあげる、ついでにお店も行こう、と誘ってくれた。

夜、着ていく服を決めてから楽しみだな、まだ全然街に行ってないんだもの、と浮かれていた。

約束の日、美咲ちゃんがアパートまで来てくれた。電車を乗り継ぎ、それこそテレビで見る、街に来た。
ものすごい数の人が早足で歩いている。何度も人にぶつかりながら美咲ちゃんの後に続く。

美咲ちゃんが教えてくれていろんなお店に行った。
一体、どのくらいのお店が東京にはあるんだろうと思うくらい、同じような服屋さん、雑貨屋さん、靴屋さん、喫茶店、とまわった。

美咲ちゃんに、東京にふさわしい物を着ないとねと言われ一軒の洋服屋に入る。そこは美咲ちゃんの友達が勤めているので安く買えると言われ、どんどん服を勝手に選んてそのうちの一つを着たら「うん、これを着て行こうよ、あとは靴とバッグ」と言い勝手に選んでいく。なんだかわからないうちに家を出たとき身につけていたものは何もなくなっていた。
鏡には、見知らぬ女性が映っていた。

そんなに思ったほど高いお店ではなかったし、美咲ちゃんの友達の人が社割り、というのにしてくれたので、たくさん買ったわりに、思ったほどではなかった。袋をたくさん抱えて帰った。

それからは休みの度に美咲ちゃんに誘われ、案内がてら前に行ったお店でまた服を買った。

小さいけれど部屋にはクローゼットがあるので、前の方に買った服、後ろには持ってきた服を掛けておいた。

半年が経つ頃にはずいぶんと東京にも慣れた。行きたい所はスマホで検索して一人でも行けた。

ある休みの日、渋谷を歩いていると「あざみ!」と言われ見ると、田舎で一緒だったちさとだった。

「わぁー!懐かしい!」と二人で手を取り笑顔になる。ちさとは私を見て「あざみはすっかりもう東京の人だね」と言った。
ちさとは、相変わらずむかしの雰囲気を残したままだった。

「私ね、結婚するの」とちさとが言ったのでびっくりした。
「え?誰と?社内恋愛?」と言うと
ううん、と首を振り頬を桜色にして「高校で一緒だった孝次くん」。
あざみが驚いていると、ちさとの言うには、静岡に二人で行くという。そして体に優しい野菜を育てていくの、とちさとは言った。

「こういうの、Iターンっていうんだって」別の田舎で一から住んでやっていく、と言った。静岡を選んだのは、孝次が中学生の頃から、できたらいつか住んでみたいと思っていたからだそうだ。

「田舎ってどこも若い人が少ないでしょ?だから若いご夫婦とか一人ででも知らない田舎に住むのはすごい歓迎してくれるの。住む所もちゃんとそこで無料で用意してくれるの」
私ね、とちさとは言うと、
「街ってなんか合わないなあって思っていたの。そしたら孝次くんが違う田舎でこの先、生まれてくる子供のためにも安全な野菜を作りたいって。聞いた時私もやりたい!って思って」と言った。

じきに引っ越すからあざみにあえて良かった、と言って別れた。

その日帰ってからあざみはずっと考えていた。
今ではメイクもすっかり慣れ雑誌を見ながら工夫したりしている。
洋服も自分で欲しい物をよく買っている。

そのせいか、ちゃんと貯金しようと思ったのに結局お金がかかり貯金は出来ていない。

クローゼットを見る。東京に、街にふさわしい服が所狭しと掛かっている。後ろには昔の服が肩身が狭そうに掛かっている。

私は、私は何をしたかったのだろう。ちさとのように将来なんて何も考えていない。

ただこのまま東京で買った物に埋もれて生きていくのか。
それがしたかったことか。

ふと気がつき、スマホで調べる。
検索すると、たしかにIターンと呼ばれる人を歓迎しているところが多い。

さっきちさとが言った静岡、という言葉でお茶を思い出していた。

生まれ育ってから飲まない日はなかった。でも今はコーヒーばかりを飲んでいる。

お茶のいい香りが記憶の中で蘇り立ち昇る。
そこであざみは思い出した。

子供の頃お茶を飲む度、おいしいな、こんなおいしいお茶が作れたらいいな。この村みたいにたくさんのお米作ったり畑をやったりは大変で嫌だけど、お茶って作るの難しいのかな、と思っていた事を。

街はたしかにいろんな物が溢れている。でもそれと引き換えに大切な事をどんどん手放している気がしていた。

街は不自然なんだ、と初めて思った。
何も生み出していない。
とても眩いけれど、それはまやかしだ。

あざみは自分の生まれ育った田舎を思い出していた。
一面に広がる実って黄金色になった田んぼや野菜が育ち生き生きとした緑が広がり、土の匂いのする風が吹く。
懐かしさと、もう一度ああいう景色の中で過ごしてみたいと強く思った。

もう、なんの為に服を買ったりメイク道具を増やしていたのかわからなくなった。

私もやっぱり田舎が、農家が似合うのかな。
前はあんなに嫌だったのに。

静岡でお茶を作ってみたい、と思った。何かを作り出す、という事は東京には、街には、私は見いだせなかった。
そして時間はかかるだろうけれど、いつか家族に自分が作ったお茶を飲んでもらいたい。
おいしいお茶だね、と笑顔で言ってもらいたい、とはっきり思った。
これが私の将来の夢なんだ。

よし、と言うと真剣に静岡でお茶作りの為に受け入れてくれるところを探す。

久しぶりに気持ちが充実感で満たされる。

受け入れてくれるところを探して、一からお茶作りを教わって。
田舎の人と暮らすのは幸い慣れている。

これから忙しくなるな、受け入れ先をピックアップしてお休みの日に見に行かないと。

たくさん買った服はリサイクルショップで売ってしまえば少しでもお金になる。後ろの服を前に持ってこよう。

そうだ、チーフに言わないと。
退職届も書いておかなくちゃ。
美咲ちゃんにはちゃんと話しておこう。

いつの間にか夕方で暗くなりかけていた。
カーテンを引こうと立ち上がり、外を見る。様々なネオンが点いている。相変わらず外は人が多い。そして何故かみんないつも急いでいる。カーテンを引き、私は私にふさわしい場所で、ゆっくりと地に足をつけて生きて行こう、とあざみは凛とした気持ちで思っていた。

6/11/2023, 5:52:24 PM