:秋風
夢を見る。
手を取り合いながら二人、海中に浮かんでいる。ここは薄暗く何もない。弾けて消えゆくあぶくが私たちを包んでいるだけ。
何もない、しかし全てがここにあった。
ここが私の全てだと思った。
突然貴方に強く腕を引かれ、向かい合わせになる。とん、と軽く肩を押され体が沈む。沈んだ際に生まれた微かな風が、私の長い髪をふわりと押し上げ、あぶくが私たちを撫でる。
貴方の上後から光が降り注ぎ、長い髪が揺らぎ広がる。降り注ぐ光と長い髪が光輪となり、微笑む様は女神の如く、ステンドグラスの前に佇む石膏と瓜二つ。貴方の瞳はどこまでも柔らかい。熱心に祈りを捧げる誰かの気持ちを今しがた理解した。
瞠目する。何に?
辺りを漂う己の髪が徐々に上昇してゆく。掴もうと手を伸ばしてみるも、髪は指先をすり抜け揺れ笑う。引き千切ってしまおうと漸く掴んだ時、手の甲にそっと貴方の手が重ねられた。貴方は私の髪を手ごと掬い上げながら、光を含んだ美しい目を細めて囁いた。私の名を。
見開く。息が苦しい。
宙ではなくベッドにいて、髪は枕に広がっていた。幸福の中を漂う貴方を描き出し、飽きもせず底冷えするような朝をまた迎えた。
まばたきをして、ぼと、と枕に涙が染みる。
彼女は、そんなことしない。彼女は、あんなこと言わない。彼女は、ちがう。
都合の悪い夢を見ている。
洗面所の鏡に映る自分の顔が酷く醜い。血の気が引いた青白い頬、震える唇に、どこまでも黒い瞳。
――――貴方の髪、すごく綺麗。さらさら揺れて、透き通ったような色で、とても素敵……地毛なのね、ああ、よく見たら、貴方の瞳も。きれい、とっても。
勢い良く水を出し、手のひらに溜めては顔に押し付ける。果てに溺れ死にたくなった。冷水で顔を洗っても気分は晴れない。髪を纏めることもせず水を浴びたせいで、顔に、首に、へばりついた髪の感触が気持ち悪い。袖をまくっていなかったために布が手首に巻き付いてくる。
ぎょろりと見上げた鏡に映る重い黒髪。
バカみたいだ。
ハサミに手を伸ばした。
お揃いになりたかったのか、美しく煌めく髪に憧れたのか、それとも願掛けだったろうか。どちらが言い出したのか、始まりが何だったかは不確かで、今更こじつける理由もない。ただ、髪を伸ばしていたという事実があるだけ。
失恋ではない。断じて違う。
見事な中秋の名月がぽっかり空に浮かび、眩しい月光が降り注いでいた秋夜。秋風にさらわれた髪を捕らえられたあのとき、目を細めて掬い上げられた髪を、綺麗だと囁かれたこの髪を、震える手に重ねられた貴方の手のひらの感触を、名を呼ぶその声を、月の映ったブラウンの瞳を、瞠目する私が映ったその瞳を、全て――あれは幻だった。
私が作り上げた虚構。
不都合な微睡みを知ってしまった。その何もかも断ち切って、あれは幻だと脳にメスを入れて、悪夢に魘される日々ともさようなら。
私に愛を囁く貴方など。
寒気がする。
付け焼き刃を握りしめてしまえ。
ざく、ざく。できるならこのまま排水口に流してしまいたい。ざく、ざく。あの秋の夜の貴方の指も、目も、声も切り刻んで、零れる涙も切り刻んで。
どうか彼女の目が、喉が、腫れてしまいませんように。どうか彼女の身体がやつれてしまいませんように。どうか、二度とまやかしを囁かないで。
全部、全部、悪い夢よ。
ざく、ざく。どうか、彼女の美しい髪が傷んでしまいませんように。
ざく――ざく。
秋が終わる頃、髪を切った。
11/14/2024, 4:43:25 PM