夕暮れ時、町外れの駅のベンチに腰掛けながら、遥は鞄のファスナーを何度も開けたり閉めたりしていた。セミの声が遠ざかり、風が涼しさを帯び始めている。足元には、ペットボトルの水と小さな切符が一枚。片道だけの、名も知らぬ町へのチケットだ。
「もう行くの?」
肩越しに聞こえた声に、遥はゆっくりと振り返った。高校時代の同級生、圭介だった。自転車のハンドルに肘をかけ、彼は気だるそうに立っていた。
「うん。そろそろ。」
遥はそう答えたが、どこか声が浮ついていた。旅立つと決めたのは一週間前。けれど、心はまだこの町の夕焼けに引きとめられている。
「どこに行くの?」
圭介の問いに、遥はしばらく黙った。そしてぽつりとつぶやいた。
「――遠くへ。」
その言葉を口にしたとき、心の奥に沈んでいた小さな波が揺れた。誰にも届かない場所へ、知らない風の吹く方角へ。ただ、何かが変わる気がしていた。
圭介は少しだけ笑って、「あいかわらず抽象的だな」と呟いた。
「逃げるわけじゃないよ」と遥は続けた。「何かに追われてるわけでもない。ただ、今のままここにいたら、自分が自分じゃなくなりそうで……わかる?」
圭介は黙ってうなずいた。駅のホームには人影がなく、電車の音も聞こえない。時間だけが柔らかく流れている。
「お前がいなくなったら、ここの景色もちょっと変わるかもな」
そう言った圭介の目が、少しだけ赤くなっていたのを、遥は気づいていた。けれど、そのことには触れなかった。触れてしまえば、行けなくなってしまう気がしたからだ。
やがて遠くから、電車の音が近づいてきた。線路の向こう、夕焼けがますます濃くなっている。遥は立ち上がり、鞄を肩にかける。
「また、帰ってくる?」
圭介の声に、遥は微笑んで答えた。
「たぶん。でも、そのときの私は、少しだけ変わってるかもね。」
電車がホームに滑り込む。ドアが開く音に背を押されるように、遥は一歩を踏み出す。
遠くへ行きたい――その言葉の意味が、ほんの少しだけ形を持ちはじめていた。さよならも、ありがとうも、うまく言葉にはならなかったけれど、それでも心は確かに前を向いていた。
電車の窓から見えた圭介の姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。
7/3/2025, 11:59:33 AM