ヴィオラさん、入りますよ――ノックしてそう言うと辛うじて返事らしきものが聞き取れたものの、何と言ってるか短いうえに声がこもりすぎていて分からなかった。駄目だ、よりもずっと短かったから、おそらく「ん」だったのだろう。念のため入りますよ、と言ってからノブを回す。
開けた視界は相変わらずごちゃごちゃしているが、そのなかに脱いだものやごみらしいものがないのには正直なところほっとする。好きな人の部屋がごみだらけというのは俺も嬉しくない。
重いカーテンを引いて暗い部屋を、それでもスムースに歩いてあのひとの座っているベッドに近づく。丸めた背を向けたままということは、おそらくゲームに夢中なのだろう。悲しくなるほどガチャ運に恵まれないこのひとがいまだに引退しないのだから、違う部分で面白いのか、それともプレイテクが並ではないのか。
「また吸いにでも来たのか?」
「そんなところです」
俺は応えながらベッドのふちに座って、横向きにあのひとの背にもたれかかる。癖の強い髪が広がる背中の感触はあまりよくはないが、構わず首元に顔を埋める。
「......」
音を絞ったゲームの戦闘BGMがヴィオラさん越しに聴こえてくる。肩の動きが熱中の度合いを伝えてくるが、俺はそのままの体勢でいた。
「また、そういう話だったのか、ここに来たということは?」
そのままの姿勢、意識のほとんどをゲームに向けたままのあのひとの声の振動が伝わってくる。
「ええ。今回は78歳のおじいさんだそうで。義理の息子がやっかいな存在になってると」
「まったく、クズばかりだな。だが、お前もお前だ。いい加減慣れろよ」
頭を少し動かし、肩口に乗せると、犬や猫の頭を撫でるかのようにあのひとの手が伸びてくる。
「無理ですよ。仕事だってのは分かってますし、僕なりに線引きもしてます。でも――」
「身内にそういう被害者でもいたか?」
端末が切られたのか、聴こえていたBGMが止まり、あのひとがこちらを向いたので、頬と頬が触れる。少し寄りかかる加減を増して、その温度を感じようとする。
「いえ。ちょっと違いますけど、毛色は近いといいますか」
「そうか」
ふ、とあのひとの体が離れたかと思うと、ぐるりと反転して目の前にあのひとの顔が現われた。
「まあ、なんだかんだ言ってもお前もまだ若いからな。それに、頑張って慣れるようなものでもない」
「はい」
唇を重ねると、す、といつの間にか回されていた両腕によって引き倒される。
「ヴィオラさん」
「被雇用者への福利厚生だ。明日からの仕事に備えて少し寝ておけ」
距離が近すぎるために、その目から表情を覗うことはできない。
「ヴィオラさんそんな言葉知ってたんですか?」
少し距離をとっても、やはり何を考えているのかがつかめない。俺を見ているのかもよく分からない。
「うるさいな。放り出されたいか?」
そう言ってヴィオラさんは体の位置を入れ替え俺を睨む。ただ、それが俺にはひどく魅力的に見えてしまい、首を伸ばして再び唇を重ねた。
「なんだか最近図々しさが酷くなってきた気がするぞ」
顔が離れたかと思うと、首筋がひと舐めされる。噛むのだな、と俺は首を伸ばしたが、思っていた痛みが走らないので視線を向けると、にぃ、と笑われた。
「そこまでのサービスはしてやらん。そういう気分でもない。まあ、あれだ。眠るまでいてやるよ。さっきの続きだ」
そう言うとヴィオラさんは俺を抱えるようにしてベッドを転がり、落ち着くとどこかで聴いたような唄を歌いだした。
「これ――」
もう15年は前だろうか。家族で祖母の家を訪ね、そこで眠るときに聴いたものと似ている気がする。
「――、――――、――――」
「......」
「――――、――、――」
ばあ、ちゃ、
背中が撫でられるごとに、思考が落ちる。燃え広まりかけていた甘く、暗い火がくすぶり消えてゆく。
「――、――」
ああ、会いたくなってきたな。ばあちゃん。
目覚めたときにはあのひとはおらず、ただ目の前にメモが残されているだけだった。
『しっかり働いてこい』とだけ。
4/22/2025, 9:59:01 AM