Unm

Open App

フィルター∕昨日のお題

 逃げよっか。と呟いて差し出された左手を思い出す。あの手を取っていたら、今頃僕らはどうなっていたのかな。
 わずかに日の光が差し込む薄暗いキッチンで冷蔵庫に寄っ掛かりながら、コーヒーメーカーに溜まっていくコーヒーを眺めて一人ため息をつく。
 昨日たまたま買った、半額になっていたフィルターは前のものよりおちる時間が早い気がする。もう少しだけ遅くしてくれたっていいのに、と無茶なことを考えながら冷蔵庫の横にある、戸棚の奥に詰め込んでいた揃いのコーヒーカップを取り出した。
 通販サイトで、デザインに一目惚れして予算より高い値段に目をつむり購入したそれが2つセットだったのに気づいたのは商品が到着してからだった。
 6畳1Kの狭いこの部屋に一緒にコーヒーを飲む為に呼べる人などいるわけもなく、ただ思い出したくないものを思い出してしまいそうな気がして、そのまましまいこんでいたそれを、まさか使う日がくるとは思わなかった。
 嬉しいのか、憂鬱なのか、自分でも持て余している感情を吐き出すようにため息をついた。
 一口しかないコンロに、お皿一つぶんの広さのシンク、明らかに自炊なんてしない人のためのキッチンにぴったりの安っぽいコーヒーメーカーは、引っ越してきてしばらく経ってから悩んだ末に購入した。
 二人で暮らしていた時はいまよりずっと広くて充実したキッチンの真ん中に、キッチンの主役みたいな顔をした彼の拘りの本格的なコーヒーメーカーが鎮座していた。それを思い出したくなくて、でもコーヒーは飲みたくて、苦渋の選択のうえで安っぽいそれを買ったのだった。
 長いのか短いのかわからない時間が経ってようやく溜まりきったコーヒーを、数年眠っていたカップに注ぐ。薫りも色もあの時よりずっとチープに感じで、これをコーヒーに拘りのある彼が飲んだらどんな風に思うんだろうか、とおかしくなった。
 片方のカップに砂糖とミルクを入れて、トレーがないことに気付いて仕方なく両手にカップを持った。部屋とこちらを仕切るすりガラスの入ったドアを、これも仕方なく足で開けると、窓の外を眺めていた横顔がこちらを向いた。

 ねえ、なんで来たのと漏れかけた言葉を飲み込んで、僕は揃いのカップをソファーに座る彼の目の前にあるローテーブルに置いて、少しだけ悩んで彼の横の隙間に座ることにした。
 ギッとソファーが音を立てた。彼は僕が隣に座ったことには気にせず片方のカップから微かにのぼる湯気を見つめているみたいだった。

 「コーヒー、淹れるんだ」
 「……うん。……安物だからさ、あんまり美味しくないけど。たまにね」

 ぎこちなく、会話が進む。言葉を紡ぐ度に溢れそうになる言葉を押し止める様に、ミルクコーヒーを流し込む。味が薄いのは、安物のコーヒーメーカーのせいなのかこの状況のせいなのか、僕にはわからなかった。

 あの時僕が掴めなかった左手でコーヒーカップを持つ、君の横顔を覗き見る。ねえ、なんで来たのって聞いたら君はなんて答えてくれるの。彼の手の代わりに、揃いのカップを握りしめた。


-------------------
お題更新に間に合わなかったので、前のお題のまま投稿します
書きたいところだけ

9/10/2025, 11:16:23 AM