「お母さんが子供だった頃、空はとっても青かったのよ。」
病院の一室。ガラス窓の外には物憂げな灰色の空が広がる。母親はベッドに横たわり、見舞いに来た兄弟と話をしていた。小学生の兄・タカシと幼稚園の弟・サトシは信じられないといった面持ちで、ガラス越しに空を見上げた。
「あなた達は青空を見たことがないのね。」
母親は力無く笑った。
タカシが生まれた年、富士山が破滅的な噴火をした。噴出した灰色の火山灰は上空一万メートルまで舞い上がり、十年経った今も空を覆い尽くしている。
「もう一度、青空が見たい…」
か細い声で呟くと、母親は眠りに落ちた。
「お母さんに見せてあげようよ。青空。そしたら元気になるよ。」
家に戻った兄弟。無邪気に騒ぐサトシを横目にタカシは考え込んだ。
どうやって?空に絵具なんて塗れない。折紙なんて貼れない。どうしたらいい?
考えあぐねるタカシ。その目に母親に買って貰った昆虫図鑑が飛び込んで来た。タカシは図鑑を手に取ってパラパラとめくると、あるページで手を止めた。
これならうまくいくかも。
数日後、兄弟は母親を車椅子に乗せ、病院の中庭に連れ出した。中庭には沢山の子供達が集まっていた。子供達は手に手に箱を抱えていた。
「開けて!」
タカシの号令で子供達は一斉に箱を開けた。箱から青い蝶が飛び立った。蝶は次から次へと飛び立ち、中庭は蝶で埋め尽くされた。
「…あぁ…」
母親は目を見開き、無数の蝶の舞を見つめた。
やがて蝶は群れとなり、中庭の上空に舞い上がって青い光となった。それは雲の合間から覗く青空のように見えた。
「オレとサトシで捕まえたんだ。学校のみんなも手伝ってくれて。」
蝶の群れは西の空へと消えていった。
空を見上げる母親の目から涙がこぼれ落ちた。
「…ありがとう…」
声にならない声で母親は言った。
「…きれい…とっても…こんな…こんなきれいな青空…見たことない…」
翌日、母親は兄弟に見守られながら息を引き取った。
「お兄ちゃん、あれ…」
サトシは顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら病室のガラス窓を指差した。その先には、一匹の青い蝶が止まっていた。兄弟は涙に濡れた目でガラス越しに蝶を見つめた。
おもむろにタカシが蝶に近づいた。
「あっ…」
蝶はふわりと飛び立ち、物憂げな灰色の空に舞い上がった。
2/25/2024, 2:05:43 PM