町をぐるりと囲むあの山のどこかに馬と鹿を混じり合わせたような姿の神様が住んでいて、住処に迷い込んだ人間の願いを何でも叶えてくれる。そんな文字通り馬鹿みたいな噂話が、私の住む土地にはある。
金曜夜にたまーにやってる国民的アニメ映画じゃあるまいし、居ないでしょ、現代に。そもそも山で迷った人の願いなんて十中八九「家に帰りたい」だ。少なくとも〝何でも〟は叶えてくれないだろう。まあ、大方軽い気持ちで登山した奴が遭難した不安感からただの鹿を見間違えて、偶然生還できたのを「山神さまのおかげ」だと思い込んでるだけだと思うけど。
そんな馬鹿げた存在が、こんな身近にいるワケが無いのだ。ましてや私の目の前になんて。
「……居ない、はずなんだけどなあ」
気づけば桜と紅葉が同時に色付くあべこべな世界の中、馬とも鹿とも言えない奇妙な生物がじっと私を見下ろしていた。頬をつねれば痛い。残念ながら夢じゃないらしい。
軽トラック位の大きな身体。黒豆みたいな目がはめ込まれた面長の顔から、おばあちゃんが使ってる樫の杖みたいな、艶やかで硬そうな角が生えている。首元はふさふさの白い襟巻が着いていて、角と同じ色の蹄は馬と同じで割れていない。
景色も目の前の生物も、見れば見るほど奇妙だ。もう一度、今度は反対側の頬をつねってみたけども、やっぱり痛い。馬鹿みたいな生物が目を細める。なんだか笑われてるみたいで少しムカついた。
おかしい、絶対におかしい。山に近づいた覚えなんてさらさらない。ついさっきまで友人と、取り留めもない会話を楽しみながら帰り道を歩いていたはずだ。二駅隣に最近出来た喫茶店の話とか、飼い犬が可愛くて堪らないだとか。どうせ行くなら山なんかじゃなく、喫茶店の方が何十倍も良い。
ならば目の前の光景はどういうことなのか。痛む左右の頬っぺたが、夢ではないと訴え続ける。まあ自問自答を繰り返しても、やっぱり答えることは出来ないわけだけど。
奇妙な生物は鳴くことも無くじっと私を見下ろしたままだ。時折瞬きをして小首を傾げる。その様子は何かを待ってるみたいにも見える。……もしかして、願いを言えって事なのか。
何だかもう考えるのも馬鹿らしくなってきた。馬鹿馬鹿考えて馬鹿がゲシュタルト崩壊しそうだ。というよりすでにしている。
ようし、分かった。願ってやる。どうせならバカみたいな願いを言ってやるぞ。私の願いは――
「遊んで暮らせるだけのお金が欲しい!」
奇妙な生物がぷるる、と鳴いた。
××××
「――がね、こがね。聞いてる?」
友人の声で我に返る。あんなに鮮やかな色を放っていた桜も紅葉も、視界のどこにも見当たらない。勿論あの奇妙な生物も。何だ、やっぱり夢じゃないか。友人の顔を見れば怪訝そうな表情でこちらを見つめていた。ほんのちょっとだけ、あの生物に似ている。
「ごめん、少しぼーっとしてた」
「大丈夫? テスト明けの疲れが出てんじゃない」
「あはは……そうかも」
そうしてまた取り留めのない話をしながら家路を歩く。幻覚が見えるほど疲れているとは、今日は早めに寝ようかなあ。そんな事を考えて、友人の話に相槌を打っていれば、いつの間にやら自宅の前……なのだが。
「何これ、落ち葉の山?」
ぽかん、と口を大きく開ける友人。玄関扉のすぐ横、インターホンに届かんばかりの落ち葉の山がこんもりと鎮座している。ぴゅうと風が吹いて、何処からか飛んできた早咲きの桜の花びらがその上に落ちた。見覚えのあるその色彩に、思わず吹き出してしまった。
お金が欲しいと願ったら沢山の落ち葉が家の前に置かれていて、まるで狐か狸に化かされたみたいだ。いやあれは馬か鹿か……馬鹿か。馬鹿に化かされるなんて、駄洒落みたいな話だ。
見た目もやる事もばかばかしい奴だったけど、まあ存在は認めてやっても良いかもしれない。神様かは別だけど。
「え、ちょ、ちょっと、こがね!」
いつの間にか落ち葉の前にしゃがみこんでいた友人が、今度は目をまん丸に見開いて振り返る。
「なんか、落ち葉の中から、お札いっぱい入った鞄、出てきた」
「へ?」
「どどど、どうする?」
「とりあえず、交番持ってこうか……」
町をぐるりと囲むあの山のどこかに馬と鹿を混じり合わせたような姿の神様が住んでいて、住処に迷い込んだ人間の願いを何でも叶えてくれる。そんな文字通り馬鹿みたいな噂話は、もしかしたら本当なのかもしれない。
【バカみたい】
3/23/2023, 7:24:05 AM