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金曜深夜。
やっと仕事から解放された。
疲れた……いつまで続くんだろうこの生活。
幸せな未来を夢見た日もあったのになあ……
重たい身体を引きずって家に帰った私を待ち構えていたのは、天使だった。

「遅かったですね。金曜日なのに今まで仕事ですか? ああ、なんて可哀想な人間なんでしょう、そんなに疲れた顔をして」

天使はソファの真ん中に座って、ニッコリと微笑んでいる。
勘弁してよ。
帰ったらすぐそこのソファにダイブしようと思ってたのに。天使がいるから出来ないじゃないか。

「えっと何か用ですか……?」
「あなたの悩みを聞きに来たんですよ。あなたは幸せな未来を夢見ていたのでしょう? すっかり疲れてしまっていますね。でも諦めるなんてまだ早いですよ。ほら、どうやったら人生がよりよくなるか一緒に考えましょう?」
「いや、今はやめときます」
「そんな事言わず、ね。あなたの求める幸せは何か、一緒に探しましょう。何に悩んでいるのか私が聞きますから」

天使はソファの中央にすわり羽を伸ばして、少しも動こうとしない。
私の求める幸せは、今すぐソファに寝っ転がることで、悩みといえば天使がソファを占領するから、それができないことだ。

「疲れてるんで、結構です……とりあえずそこ、どいてください」
「可哀想に、疲れ切ってしまっているのですね。顔をみれば分かります。もう本当にひどい顔ですよ」
「……」

この天使はデリカシーとかそういうものがないらしい。
会話の相手としては一番疲れるタイプかも。
天使は、私の苛立ちなど気づかないのか、にっこりと微笑んで言った。

「あなたはきっと、色々と抱え込んでしまっているのでは? 幸せになるには、重荷を下ろすことも必要ですよ」
「重荷ですか?」
「そうそう、あるでしょう、色々。人間は悩み多き存在ですからね。そうだ、何か一つ、ここで手放してみませんか? 私が引き受けますから」
「手放す? 引き受ける?」
「ええ、捨てたくても捨てられないもの。あなたが溜め込んでしまっているもの。モノでも想いでも。捨てられないのは、きっと最初は大切なものだったのではないですか? 今はもう重荷となってしまったけれど……」
「捨てたくても捨てられないもの、か……」
「さあ! 勇気を出して手放してみましょう。大丈夫ですよ、あなたが、手放したものは、私が引き受けましょう。夜空で星屑に変えて天の川にそっと流しますね」
「え、じゃあ私が、何か手放したら夜空に行くんですね? ここから出て行ってくれるということ?」
「はい。あなたの為に何かしたいのです」

天使が私の為に出来ることは、今すぐそのソファからどいてもらうことなんだけど。
美しい顔で優雅に微笑む天使の前で、いまだに私は立ちっぱなしだ。

「何かを手放せば、新しく掴める。前に進むためにも、今こそ迷いを捨てましょう。私はあなたを救いたいのですよ」

前に進むというよりは、天使に帰ってほしくて、私は何かを手放すことにした。
捨てたくても捨てられず溜め込んでいるもの。
最初は大切なものだったのに、今は重荷になっているもの。
まあ、あるにはある。
考えてみれば、山程ある。
大好きだった元カレへの未練。彼との愛すべき想い出たち。
フォロワーの少ないSNSアカウント。投稿しても誰か見てくれるのかな?ってほど過疎ってる。でもたまに誰かが付けてくれるいいねのお知らせは、たまらなく嬉しい。
安月給と疲労の塊みたいな仕事だってそうだ。正社員という肩書は捨てがたいが、転職のことが常に頭にある。
それから……血はつながっているのに理解不能な両親との繋がりも。何年も連絡していない。

何か手放せば、天使が持ち帰って星屑にしてくれるらしい。
何よりじゃないか。きっと心が楽になる。
さっさと手放して天使に帰ってもらおう。

……だけど私は迷った。本当に迷った。
私は何を手放すか、決められなかった。
今までずっと手放そうとして出来なかったのだ。
例え天使が引き受けてくれるとしてもそう簡単には決断できない。
結局夜明けまで、私は立ち尽くしたまま、何を手放すか迷ったままだった。
天使が言った。

「何を手放せばいいか、分かりましたか?」
「ごめんなさい、まだ分からない」
「決められない?」
「手放す勇気がないだけかも」

天使は私の答えに、黙って考え込んでいるようだった。
しばらくの沈黙の後、天使は静かに語り始めた。

「それだけあなたの中で
深く関わってきたものなんですね
あなたにとって大切なものでも
あなたを苦しめているものでも、
あなたの一部となってしまったものを
切り離して手放すのは、
とても苦しくて難しいものです。
その、迷ったり恐れたり
その心の動きこそが
人間の美しさです。
心の揺れ、それは
人間にしか生み出せない美しいものなのです
その心の動きに触れること
天使としての役割を私は
思い出しました」

天使は、そう言うとふわりと舞い上がった。

「もう、人間のことは見放してもいいかなと思ってたんです。天使なんて今どき忘れられて見向きもされないですから。人間はいつだって愚かですし。でもやはり私も、貴方がたを手放す勇気を持てませんでした」

浮かびあがった天使は、柔らかな光を放ち始める。
私はその美しい姿に見惚れていた。

「何かを手放したくて悩んでいるとき、私はあなたの背中をそっと押しましょう。ですがあなたは、何かを手放してしまったことで後悔することもあるでしょう。その時はまた拾いに行くのも悪くないんじゃないでしょうか。私も一緒に探しますよ。いつでも見守っています、天使ですから」

バサリ、と音がして天使の羽が広がる。全て包み込んでしまいそうなほど大きな羽だ。

「うん。たまにこうして人間と話すのはいい。なんだか少し力が戻ったような気がします」

はっと我にかえる。
その美しい姿に目が釘付けになってしまったけど、私は疲れていたんだった。
私まだ、ソファに座ってないんだけど?

「じゃあまた来ます、あなたもゆっくりとお休みくださいね」

私の悩みで英気を養った天使は、そう言うと窓の向こうへ消えたのだった。

5/17/2025, 12:42:34 AM