もともこもない

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1度だけ、赤色の信号を歩いたことがある。
不眠症が酷かったためにもらった薬がきれてから何日か経って、久しぶりに寝ることができない夜が続いた日のことだった。徹夜で学校に通って3日目くらいだったかなぁ、鬱病の方も酷いし、薬はないし、ちょうど先生に嫌な言い回しをされたあとだった。なんとなく合わない友達に「考えすぎなんだよ、みんなそんなもんだよ」と決められた次の日だった。頭が、というよりは身体全体が、ぼーっとする。自分も、自分が生きる世界も全てからっぽで、灰色だった。

今の私にとっては、夜に眠れないのはかなり地獄だ。何も無いということの、「ない」の輪郭がくっきりする気がするし、現状におかしくなる程の熱量ももうないから。朝が来て、冷たい水で顔を洗う。気持ちいいとはいつしか感じなくなって、代わりに気持ちの悪い空気が肌につく。小田急線の満員電車で睨まれ、押される。その後は長い長い時間、友達を作らなければ居場所が失われるゲーム!!に参加。合わないクソと話す。私も、「その他クソ」の1部に過ぎない。くだらなくて光のない、完全な闇にもなってくれない。あと少しで燃え尽きる火を、見つめているだけのような生活だった。


今日はなんだかついてないなぁ。クソ、この信号は赤になると長いのに、たった今赤になったばかり。
待つ間、灰色の頭で考える。1Kの何の家具も無い頭で、思い出す。ああ、あいつまた押し付けがましいこと言ってきたな。ああ、あいつと早く縁を切りたいな。ああ、今日もあいつクソだるかったな。
何人も何人も、「その他クソ」の顔が思い浮かぶ。喉の下あたりが気持ち悪いし、内蔵がぐるぐると、ぐちゃぐちゃとした音を立てるけど、以前よりも勢いがない。
もう、潮時だ。
ぼんやりしているうちに、信号の色が変わった。足が動いて信号を渡った。

!!ーーーーーーーー

大きな音がした。なにか事故が起きたのだろうか、もしくは出遅れた車がいて腹を立てたドライバーがどこかに、

信号の真ん中を進みながら周りを見渡そうとした時、

信号が赤色のままだったことに気がついた。

どうして?こんなミスを今まで、人生で、犯したことがなかった。あまりに頭が悪い、おかしい、馬鹿だ、自分は大馬鹿だ。なぜクラクションが聞こえるまで気が付かなかった。赤信号が青信号になり、再び赤信号になるほどは時間が経っていなかったはずだから、私は赤信号なのに青色だと誤認して歩き始めてしまっていたことになる。そもそも、歩き出した時に信号が青色になった瞬間を見たのか思い出せない時点でおかしいのだ。ああ、おかしい。あまりにも、おかしくなった。
自分が気持ち悪くて、許せなくて、消えて欲しいと思った。
こんなくだらないことで、誰かを事故に合わせていたかもしれないこと、過失運転致死傷罪を背負わせることになったかもしれないこと、罪のない多くの人に死体を見せてしまうことになったかもしれないこと、それらの全てを自分の愚かさのせいで引き起こすかもしれなかったことに、耐えられなくて、冷や汗が溢れて、私は走りだした。走る以外、できなかった。ひたすらに、走る、走る。
駅の前について、息を切らしながら考える。どうして間違えた、どうして眠れない、どうして病院に行けない、どうして鬱がひどい、

全部、親のせいだ、だから、だからこうなったのだ、だから、親を、
呼吸が荒くなって、ひゅっと目の前が白くなって、それから、

幼きの頃の思い出が頭に浮かんだ。
日曜日、おかあさんにショッピングモールで買ってもらったピンク色の麦わら帽子が風で飛んでいった。慌てて追いかけに道路に出ると、クラクションを鳴らされた。驚いた心臓の動きを、あのときはじめて感じた。そして今も、思い出したことで心臓が動いた。
ああ、今私、気絶しているんだな。
そう気が付いてからしばらく、おかあさんとの思い出が浮かんだ。やさしかったとき、わらってくれたとき、私を気遣った量の料理を作ってくれた頃、たばこをすわなかったころ、情緒が今ほどおかしくなかったころ、お父さんの悪口を言うところ、お父さんが出ていったあと、私に当たるようになった今の生活まで、長いこと浮かびつづけた。

ふと、働きアリの法則、というのを思い出す。働かないアリを離しても、働いていたアリが働かないアリになるため、働くアリだけにすることはできない、というものだ。

私は母の中で、働かないアリになったのだろう。
そう思った時、目が覚めた。
記憶になかったが、きちんとホームの椅子まで歩いたらしい。誰かに運ばれた記憶もないし、おそらく本当に自分で歩いたのだ。

さっきのも、今までの人生も、これからの人生も全部、人のせい。人のせいにしたい。先生のせい、友達のせい、親のせい。自分の意思じゃない、人のせいで、私は、

視界の彩度が前より高い。そして、久しぶりにとても大きな眠気がやってきた。このまま、しぬことができたら、そう思ったとき、ぶわっと気持ちいい熱が出て、再び眠る。


まどろみの中で、麦わら帽子に登ったアリを払う、幼き自分の手が映った。

8/11/2024, 7:19:54 PM