もんぷ

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秋色

「あんたにはさー、そんな真っピンクよりもこういう秋色のコスメが似合うんじゃない?。」
そういってやたらと鏡の大きい豪華な化粧室で差し出されたのは、色味のおしゃれな茶色がかったオレンジのリップ。詳しいお値段は知らないけど、普段は足を踏み入れることのないような、デパートのコスメコーナーの一角にあるブランドの名前があしらわれているということは、きっと私の財布の中の現金では到底買えないレベルのお品だ。
「いいよ…借りるの悪いし。」
この一塗りでいくら分だろう。そんなことを考えてしまう貧乏性の私のことだから、多分彼女が躊躇いなく塗る面積の十分の一も勿体無くて塗れない。自分が手に持っている、お札を使わずに買えるドラッグストアで手に入れたリップがまるでおもちゃみたいに見えてとても惨めに思えた。
「それ、私に色合わなかったの。ちょっと使っちゃったけどあげる。自分のなら気兼ねなく使えるでしょ?」
「え、いいよ。大丈夫…」
彼女は同じブランドの柔らかいピンクのリップを塗り直しながら尚も私に秋色のそれを差し出した。いくら使わないからと言ってこんな高価なものは貰えない。何度も首を振ったが勢いづいた彼女は止められず、試すだけでもと勧められたので仕方なくティッシュで鮮やかなピンク色を拭き取り、元のベージュの唇に戻す。ぽんぽんと優しい手つきで色が乗せられ、自然に艶が広がっていく。この色自体も、真剣に私の唇を覗き込む彼女の顔も、とても綺麗だ。間近にあるその目元には繊細なラメが光の加減で綺麗な薄ピンクに照らされていた。
「…はい。いいんじゃない、どう?」
彼女がどこか凪いた目で鏡越しの私を見つめたので私も鏡の自分をじっと見つめる。主張しすぎない色なのに急激におしゃれに見えるし、確かに私の肌の色にも合っている。彼女の技法なのかいつもより口の形も綺麗に見えるし、何より大人っぽい。
「うん…綺麗……」
鏡の前でそう呟いて、でも言葉を続けることができなかった。真っピンクと形容されるその発色の良さだけが売りのリップだが、私にとっては自分を認められる唯一の武器だった。幼少期から映画で見るようなプリンセスに憧れ、母に頼み込んで買ってもらった濃いピンクのフリフリのワンピース。その一張羅をうきうきで小学校に着ていったあの日に待っていたのは、思い出したくもない皆の反応。そこで、どうやら私はピンクを身に纏ってはいけない人種なんだなと知った。あの日からピンクを封印した私が、唯一取り入れることができるピンク。それがリップだった。ここだけは、ピンクにしても誰にも馬鹿にされないし笑われない。そう思っていたのに…もちろん、彼女が馬鹿にした訳でも悪意を持っていた訳でもないことは分かる。それでも、やっぱり、すごく、悲しいなぁ…なんて、感情が頭を支配してしまえば表情筋にもそれが直結してしまっていたみたいで。えらく沈んだ顔の私に彼女が気づかない訳も無く詰め寄られる。そして私はあろうことかあの忌まわしいピンクワンピースの日のことからリップのことまで堰が切れたように全てを話してしまった。彼女のその不器用な優しさ故の行為も否定してしまうと考えることにもなってしまうのに。そう気づいたのは、全て話し終えて、彼女が申し訳なさと悲しみに顔を歪め、目元のラメが流れてしまうほど涙を溢していた時のことだった。
「ごめん。本当ごめん…あー、最悪や。本当ごめんな?最低なことしたわ……」
どうやら彼女は私にトラウマを植え付けた有象無象の一人に成り下がることが心底嫌だったらしい。普段は私をあんたなんて雑に呼んだりからかったりもしてくるくせにこういうところではしっかり一線を引いて尊重してくるから憎めない。むしろ、ここまで悲しんで申し訳ないと反省してくれては、こっちがどうしていいか困ってしまう。ここがホテルの一室の化粧室で、私達以外に誰も入ってこない空間で助かった。派手な髪色をした女が地味な風貌の女を前にして号泣している図なんてどう捉えていいか分からないだろうし。夕食を終えて落ちたリップを直して少しだけ散歩をしようなんて言う流れでメイク直しに入ってこんなことになるとは思わなかった。それでもまだ時間はあるし、全く急がないから今はこの愚図っている成人女性の涙が止まることを待つことにしよう。限りなく優しく彼女の華奢な肩を撫でていると、不意に彼女が言葉を漏らし始めた。そこで意外なことを知る。彼女が持つオレンジへの思いは私のピンクのそれとやけに酷似していて、これならいけるかもと買ったリップも鏡の前では似合わなくて諦めたと教えてくれた。いつも明るい彼女が、完成した私の顔を見た時にどこか影のある表情をしていたのはそういうことだったのかと一人で納得が行く。私からしたら彼女の綺麗な顔にはピンクだろうがオレンジだろうが何色を乗せても映えるだろうに、羨ましいと思っていた。でも彼女はオレンジが似合う私が頑なにオレンジを塗らないからずるい、勿体無いと思っていたらしい。お互いにないものねだりだ、と笑い合っては、それを分け合うように悲しみを分かち合う。

 やがて、艶のあるピンクと暖かなオレンジが混ざったお揃いの口で微笑み、当初よりだいぶ遅れた夜の散歩に出かけた。

9/19/2025, 1:46:13 PM