『静かな終わり』
彼女のいない家は静かだ。
電気ケトルの音、洗濯機の振動、電動シェーバーのモーター音、なにをするにもよく響く。
エアコンの効いていないリビングのフローリングは凍てついており、足裏が軋んだ。
インスタントコーヒーをマグカップに注ぎ、空っぽの胃袋へ押し込む。
トースターを使うことすら億劫で、袋から取り出した食パンにそのままかじりついた。
歯を磨いたあと、ちょうど洗濯が終わったから洗濯物を浴室乾燥機にかける。
彼女がいないだけで、3日も溜めてしまった洗濯物すらいつもより量が少なかった。
ワイシャツに袖を通し、ベルトを通したままのスラックスに手を伸ばす。
ポケットのボタンがほつれかけていることをすっかり忘れていた。
失くす前に、この場でボタンを引きちぎるかどうか、悩んだ末に放置する。
スラックスを履き、ベルトを締めた。
連日の飲み会に参加していたせいもあり、たった数日で、食の乱れがベルトの穴ひとつ分に現れる。
悲痛な現実から目を逸らし、ネクタイを締めてジャケットを羽織った。
ソファの背もたれにかけっぱなしにしたコートと、ローテーブルの上に置き去りにしていた仕事用の眼鏡と腕時計を持って玄関に向かう。
玄関先で投げ捨てた鞄の上にあるマフラーを巻き、手袋をコートのポケットに突っ込んだ。
シューズボックスという名の推しの祭壇の横にかけていた靴ベラを取る。
推しである彼女の写真を横目に、レンズを隔てた程度でここまで写りが悪くなるのかと感心した。
いつかあの目が焼けるような輝きごとレンズに収めてみせると誓いながら、靴を履く。
部屋の中で、これだけ無機質な音を立てているのに、恋してやまない音だけは耳に入ってくることはなかった。
『おはよう』
寝起き直後の、少し掠れた彼女の声が好きだ。
『いただきます』
手を合わせるとき、目を閉じる彼女のクセが愛らしい。
『いってきます』
その日の心情に合わせて揺れる青銀の小さなポニーテールに、俺が一喜一憂していることを、彼女は知らないはずだ。
しかし、明日になれば彼女に会いに行ける。
それだけをモチベーションに仕事を巻いてきたのだ。
今日で絶対に仕事を納めてみせる。
グッと決意を固めたあと、玄関のドアノブを回した。
「……いってきます」
返事なんて返ってこない。
わかっていながらも、つい言葉を溢してしまった。
12/30/2025, 9:03:44 AM