確かに俺は一億円欲しいと言った。
だがそれは現実逃避ゆえの比喩であり、机にドカンと置かれた百科事典みたいな厚さの現物を見た時は言葉を失った。
「え、なにこれ」
「ちょっとね」
「いやいや、「ちょっとね」で済ませられるもんじゃないよ!? ていうか日本銀行ってテープ貼ってあるけど大丈夫なの!?」
「ショートケーキだってお店のロゴが入ったセロファンで包まれてるじゃない。それと同じだよ」
「同じじゃない!!」
引き合いに出されたショートケーキもびっくりだよ。
彼女は唇をとがらせて、
「ほしいって言ったのあんたじゃない」
「いや言ったけども!!」
実物を前にすると嬉しさよりも怖さが勝る。
「ほんとに大丈夫!? 最近話題の金塊をあっちで買ってこっちで売って儲けた金だったりしないの!? あと贈与税どうなるの!? 確定申告は青色赤色!? やり方分かんないんだけど!」
「まあまあ」
彼女は落ち着いた様子で日本銀行のテープを剥がし、透明なフィルムをはがしていく。新札の匂いってこんな感じなんだ。インクの匂いがプンプンする。
「半分こでいーい?」
「いや待てって……」
チャイムが鳴ったのはその時だった。続いてドンドンと玄関の戸を叩く音。ワンルームの部屋にその音が大きく響く。俺は思わずドアを見た。
「すいません、警察ですが」
ドスの効いた声。
「おい、これって……」
振り返ると、なんとそこに彼女はいなかった。
残されたのは机の上の札束で、綺麗に半分なくなっている。
開け放たれた窓でカーテンがそよぐ。いつの間にか窓の外へ出ていた彼女は、窓枠に手をかけて、顔の上半分だけこちらに向けていた。
「欲しいって言ったのはあんただからね。じゃ」
彼女がひらりと姿を消したのと、玄関の戸が乱暴に開けられたのはほぼ同時だった。
【お題:ないものねだり】
3/26/2026, 12:37:58 PM