『自身は淡白なのだろうか』
誰の目に留まることなどなく
ただそこに存在しているだけで
何かを成すこともなかった
其れがいなくなった事実は決して悲しくはなかった
たった一日の涙で終わってしまった
それなのに
そうだったはずなのに
其れの記憶は数年経っても消えなかった
其れの姿。形。顔。声。香り。好きな色。
其れが作ってくれた南京の煮物の味。
其れと行った場所。
其れとの会話。
全て常に覚えているわけではない
ただ、ふとした瞬間に記憶が蘇っていく
けれど決して悲しくはなくて、辛くはなくて
そんなことあったな、なんて
無心に思い出す
其れは善人とは程遠い存在だった
夫を捨て子を捨て他の形へと去っていった
今でも其れはどこかに記憶として残っている
其れを信じていた
其れを愛していた
其れが善人だと信じて疑わなかった
其れは裏切った
生まれてからずっと傍にいた其れが
自身を捨てるとは考えてもみなかった
そして自身がその事実を一日の涙で終わらせたことに
また、驚いていた
其れがいない人生は何ら変わりなかった
困ることだって対して思いつかない
ただいない、という事実だけがそこに在った
それもさして気にならなかった
其れがなくてもそれなりに幸せで
其れが原因で人生を続けられないなんてこともなかった
いつしか考えるようになった
自身はどこかおかしいのではないか、と
其れを信じて愛していたのに
何故その事実が辛く、悲しく、苦しくなかったのか
其れの人として最悪な事実を知った時も
何故怒りを露にせず
まるで他人事のように思ってしまったのか
自身はこんなにも薄情だったのか、と
自身は、私は、それ程母を愛していなかったのかな
3/20/2024, 7:56:47 PM