『心の深呼吸』
彼女が起きてくる少し前に、作業部屋からリビングに移動してエアコンをつける。
作業を進めるためにパソコンを開いてキーボードを静かに叩いた。
家電の最低限の音しかないリビングに、タイピング音は気をつけていてもよく響く。
「……はよ」
「おはようございます」
あ。
昨日、ドライヤー、サボったな?
柔らかな青銀の毛先がボサボサになっている。
前髪なんかは派手に反抗期を迎えていて、直るのかと人ごとながら心配になった。
俺の心配をよそに、彼女は無防備になった額をさらしながら日光を求めてカーテンを開く。
弱々しい光が差し込んだベランダの窓辺に、彼女はペッタンと腰を下ろした。
暖房の風で微動するカーテンの控えめにできた影を、緩慢な手つきで追っては捕まえる。
うつらうつらと頭を揺らしているのに、緩やかながらも影を追う指先は止めなかった。
しまいには四つん這いになって背筋を伸ばし始めるのだから、ネコそのものである。
10分ほどカーテンの影と戯れた彼女は、先ほどまでの緩やかな動作とは打って変わり、軽やかに立ち上がった。
重たく落ちていた長い睫毛はくるんっと上を向き、爽やかな足取りで冷蔵庫から牛乳を取り出す。
キッチン棚から小さな鍋を取り出して、牛乳を注いだ。
ガスコンロに火がついてしばらくすると、クツクツと心地のいい音を立て、牛乳のまろやかで甘い香りが漂う。
「鍋はそのままにしておいてくださいね」
彼女に水仕事をさせないために、念のため釘を打った。
「寝ないの?」
マグカップに注いだ牛乳を飲みながら目配せする。
「朝食の支度が終わったら寝ますよ」
「休みならゆっくり寝てればいいのに」
「心置きなく休むためです」
彼女の肌は極端に弱いわけではない。
だが、毎日のように繊維や水に触れれば人並み程度に乾燥が目につくようになった。
毎日一緒にいるのにそんな状態にしてしまうなど、耐えられるはずがなかった。
「あなたの手……、まして左手の指先が荒れたり切れたらと思うと、おちおち寝てもいられません」
「ハンドクリーム塗ってる」
「雑じゃないですか」
あんな雑な手入れで、よくもまあ青天井にきらめいていられるものだと感心した。
磨いてみたら磨いた以上に輝くからやめられない。
「髪も、爪も、今日は俺がやりますからね?」
「えぇー……」
「ついでに歯もピカピカに磨いて差し上げましょうか?」
「気持ち悪いから、それは絶対に遠慮する」
「人の愛情表現になんでそんなひどいこと言うんですか」
「事実だから」
牛乳を飲みきった彼女は、シンクに鍋とマグカップを置いた。
「とりあえず準備してくるけど、ご飯とか自分でできるから、無理しないで」
ピシャッと言い放って彼女はリビングから出ていってしまう。
無理なんて感じたことはないんだけどな。
それに、自分でやるとは言ってもコンビニで済ませてしまうのだ。
彼女が家を出る時間帯では、彼女の好きな高菜のおにぎりやひじきの惣菜は置いていないことのほうが多い。
普段きちんと摂生している彼女が、好きなものを好きなように食べられないなんてかわいそうだ。
彼女の心の安寧は俺の癒しでもある。
息苦しくならないように、窮屈にならないように、ささやかに環境を整えた。
ロードワークに出るために身支度を整えた彼女はひょこっとリビングに顔を覗かせる。
「いってきます!」
「いってらっしゃい」
ヒラヒラと軽やかに手を振るから、俺もつられて振り返した。
たったそれだけで、彼女はうれしそうに破顔させる。
元気よく小さなポニーテールを揺らして、家を出た。
11/28/2025, 8:54:13 AM