夢見が良い訳でも悪い訳でもなかった。ただ、なんとなく予感だけがあったんだよ、自分の中に。
死にたいとか消えたいとか自分で思うことはあっても、生きる事を本当に諦める人間なんて存在しないと思っていた。そういう一時的な意思とは裏腹に身体は生きたいと抗うものだから。
ある日、その生きる事を諦めた人間が、私の前に現れた。それが、父方のじいちゃんだった。じいちゃんは一緒に暮らしていたけれど、年明けに転んで入院する事になった。
「家さ帰りてぇ。美味いメシが食いてぇ」
って、じいちゃんが言っていた。骨折した骨が治ってこれからリハビリを重ねて退院して、また日常が戻ってくる。考えるのも理想を並べるのも簡単だった。でも現実はうまくはいかない。じいちゃんはリハビリをするどころか刺している点滴すらも抜いて家へ帰る家へ帰ると別人のように暴れ出したらしかった。
「看護師さんの言うことちゃんと聞いでな、リハビリして家さ戻ろうなぁ」
ばあちゃんはそんなじいちゃんも見捨てずに必死に声をかけていた。毎日毎日病院へ通ってじいちゃんが息子の名前、孫の名前を忘れても、ばあちゃんに強く怒ってもずっとずっと全部受け止めていた。いつかまた家に帰ってくる日を願って。
深夜2:00。春も近づいてきているというのに異常な寒さでなんとなく目を覚ました。珍しく雪がしんしんと降り積もっている。なんとなくだった嫌な予感が的中して、母がじいちゃんが亡くなった事を伝えに来た。
3時間半睡眠はさすがに体にこたえた。頭だって働きやしない。それでも居間を片付けて今出来ることを淡々とこなした。しばらくすると目を腫らした父やばあちゃんがやって来て、それからまもなくじいちゃんが帰ってきた。ひと段落つくと、親族だけの空間で線香をあげて挨拶をした。
「じい、おめが飲みてがった酒っこでも飲ませるがぁ…おめが食いてがった刺身も切ってやるねぇ」
父はそう言って刺身を切った後、じいちゃんの口に脱脂綿をつめてじいちゃんが大好きだった缶ビールと日本酒をちびりちびり飲ませてやった。
「やっと家さ、帰って来れだのぉ。良がった良がった…おかえりんしゃい、じい」
ばあちゃんがどこか力なく笑った。
じいちゃんの顔を見て、みんなが思い出話を語って、笑って、泣いて、泣きじゃくった。
自分は、世話になったじいちゃんの顔を見る勇気がなかった。まだまだ未熟で子どもな自分は死を受け入れることが出来なかった。顔を見ず、涙せず。人として薄情で逃げる事しかできないのだと自嘲した。これで最後なのに、どうしてもどうしても、自分は弱虫で何も出来なかった。
ばあちゃんが自分と姉を呼び止めて、昔の話と入院中の話をしてくれた。お茶を淹れるのが上手くて千利休と呼ばれていたこと、伊勢エビが食べたいって言っていたこと。病室でじいちゃんが深夜に起きて座って窓の外を眺めていたこと、孫である自分たちの名前を何度も呼んでいたこと、実は1度だけ意識不明になっていたこと。
「じいはなぁ、今までも沢山死にかげだんだぁ。んだども、神様がじいを救ってけだねぇ。今回も神様が助けでけると思ってだども、じいももう十分だって思ったんだべのぉ」
ばあちゃんがしみじみと語った。姉は泣き出し、私は黙って話を聞いていた。何も出来ない自分にどうしようもなく腹が立って、それなのにいっちょまえに心に穴が空いた感覚を覚えた。確かにあった存在がじわじわと消えていくような気がした。
夢ならば早く覚めてくれ。冗談にしては度が過ぎてる。じいちゃんはきっとこれから回復していくはずなんだ。返してくれ、じいちゃんを返してくれ、神様。頑固で我儘で意地っ張りだったけどそれでもみんなじいちゃんの事が好きだった、大好きだった。何かの間違いだから…じいちゃんはまだ生きてるから…頼むから嘘だって言ってくれ。
熱いコーヒーをひと口啜った。心なしか味はしなかったけれど、込み上げた何かが一筋、頬を伝ってカップへ溶けていった。
題材「夢が覚める前に」
3/20/2026, 8:51:29 PM