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#03 『泥中で舞う』

 私がまだ初等学校に通っていた頃、バレエを習っていた。バレエはお母さんが子供の時の憧れだったらしい。母子家庭で貧乏だったのに、決して安くない月謝を払って私は約4年間バレエを習った。
 上手く踊れるとお母さんが喜んでくれるから、一生懸命練習したのを憶えている。暮らしていたアパートは小さくて狭くてとても練習できたものじゃなかったから、いつも近所の河川敷で練習していた。勿論通りすがりの人にジロジロ見られるし、同級生に会った時なんて生きた心地がしなかった。それでも、いつも疲れた顔をしているお母さんを笑顔にさせたくて、毎日のように踊っていた。
 一度だけ、踊っている時に話しかけられたことがあった。それは自分よりずっと小さな女の子だった。
『おねぇちゃん、チョウチョみたい!』
そう言って手を振ってくれた名も知らぬ女の子。
 それまでの努力が報われた気がして、心の底から嬉しくて、人は声から忘れていくと言うけれど、あの声だけは、一生忘れられる気がしない。大切な思い出だ。


 あの子を見つけたのは凍えるような寒さの冬の日だった。もうすぐ、雪が降る頃だった。
 彼女は薄汚れた白いシャツを着て、裸足のままで、美しく舞い踊っていた。誰にも見向きされないのに、懸命に踊っていた。思わず立ち止まって見入ってしまう。
 スラリと伸びる手足は力を入れなくても折れてしまいそうなほど細い。ご飯を満足に食べれていないのか。よく見てみれば彼女の足元には錆びた缶がポツリと置いてある。踊って物乞いをしているらしい。
 そういえば、彼女の着る白いシャツは最近まで近くの河川敷に住み着いていた家なし子達が揃いで着ていたものだった気がする。3丁目のオグラのおばさんがボロボロの服を着ている子ども達を見て作ってあげたという噂を聞いたことがある。最近はその十数人いた家なし子も見なくなっていた。
 少しだけ恵んであげようかと鞄の中のお財布に手を伸ばす。相変わらず景気が良くないし、稼ぎの良い仕事をしているわけではないから沢山はあげれないけど。せめて今日と明日くらいは食べられるように。缶に少しばかりの硬貨を入れるとカランと音がなった。顔を上げると彼女がこちらを見つめている。
「少しだけだけど、頑張ってね」
 咄嗟にそう言った。彼女は深く、深く頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
綺麗なアルトの声は、少しだけ濡れているように思えた。

 それから何度も彼女に会った。彼女は雪が降ろうが変わらず踊り続けていた。私は会う度にお金を恵んだ。自分のご飯が危うい時だってあったけど、私には風が凌げる家があるだけ彼女よりましだと思って晩ご飯を食べずにお金をあげたこともあった。
彼女は『これで新しい服が買える』と泣いて喜んでいた。そして、深く深くお辞儀をして、また美しく踊るのだ。
 春が来た。そして、私の人生に大きな転機が訪れた。かの大都市キリサメへの移動だ。実質的な昇進と言っても過言ではない。冬の間にキリサメから視察が来て私の仕事を評価してくれたのだ。素直に嬉しかった。来週にはこんな地方都市を出て大都会で働く。同僚との間で話していた夢物語が目の前の現実にあると思うと踊りだしてしまいそうだ。
 履き古したブーツの音を立てて帰る道、今日も変わらず彼女は踊っていた。もう少しで彼女に会えなくなると思うとどこか寂しかった。
「あれ、」
 彼女はいつもと少し違っていた。変わらない白いシャツ。元々薄汚れていたそれは、泥に塗れていて酷く動きにくそうだった。
「服、大丈夫?」
 思わず声をかけた。自分の声は思ったよりも小さくて、気付かなかった彼女は踊り続けている。
 今日も真っ直ぐに伸びる細い手足。クルリと回ってその場で飛ぶ。その姿は、最近暖かくなってきて見るようになったモンシロチョウに重なって見えた。ついこの前見た、泥に羽が塗れて、それでも懸命に空を飛ぼうとしていたモンシロチョウに。汚れた服で踊る彼女は、よく、似ていた。

「ねぇ、私の家、来ない?」
 気付けば口から飛び出していた。今度はお腹から声が出て、よく響いた。彼女の動きが止まりこちらを見た。
「私の家、来ない?」
 もう一度言った。自分から言ったその言葉は意外と重みがある気がした。
 名前も知らない少女だ。過去に何があって物乞いをしているのかとかなんて1ミリも知らない。知っているのは、彼女の踊りがとても美しくて、綺麗なアルトの声を持っているくらい。
「私と一緒に、暮らさない?」
 彼女の未来が見たくなった。泥に塗れたモンシロチョウではなくて、純白を誇りながら舞う、美しいモンシロチョウを、見たくなった。

5/11/2024, 9:12:07 AM