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カーテン

 カーテンの奥から、子どもがひょっこり顔を出した。
「…君、時々そこにいない?」
 此処は自分が金の力にものを言わせて買った屋敷で、自分しか住んでいない。スタッフも全員通いである。間違っても、夜中の二時に子どもがいる場所ではない。だが時々、カーテンが膨らんでいることがあるのだ。
「…食べる?」
 子どもの視線が、卓上のミルクとスコーンに向いているようだったので聞いてしまった。
 その子はふるふると首を振り、またカーテンの中に引っ込んだ。駆け寄って布地をめくったが、何もいなかった。その日は、酔っていなかった。

 スタッフ諸氏に訊いてみたが、子どものいる者はゼロ。「此処で亡くなった子どもの噂」も訊いてみたが、誰も知らないという。
「出たとしても、それ込みで買い取ります」
 オスカー・ワイルドの「カンタヴィルの幽霊」に倣い、そう大見得を切ったのだが、もしかしたら本物かもしれない。希望が出てきた。

 検証したところ、時間に関係なく、スコーンを置いているとカーテンが膨らむことが分かった。ちなみに今も膨らんでいる。食べたいならそうさせてやりたいのだが、さてどうするか。申し訳ないが今は午後四時、少し腹が減っている。
「いただきます」
 手を合わせると、目の前にミルク、スコーンその他がもう一揃い現れた。
「お供え」とは死者のためのものだ。もしかして、今のはお祈りにカウントされたのだろうか。
「…食べる?」
 カーテンの向こうから、五歳くらいの子どもがひょいと顔を出した。髪は真っ黒で、深緑の目をきらきらさせている。
 椅子をもう一脚引っ張ってきて座らせ、高さが足りないので冬物のコートとクッションを積み重ねた。
 彼はお行儀良く手を合わせると、主の祈りか何かを唱えた(声はまったく聞き取れなかった)。食べ方も、とても綺麗だった。

 彼は喋らないが、首を振ったり頷いたりはできる。あれこれと質問をしたところ、以下のようなことが分かった。

 気がついたら此処にいた。
 昔のことはあまり覚えていない。
 此処に見覚えはなく、多分知らないところ。
 ほかに「見えないはずのひと」はいない。
 スコーンはおいしい。

 彼は次第に、スコーンがなくても出てくるようになった。おとなしく、本棚の一角に作った絵本コーナーの本を読んでいる。買ってきたぬいぐるみと遊んでいることもある。お気に入りはシロイルカとあひるだ。
 彼を見ていると、弟が小さかったころを思い出す。久しぶりに、仕事をしたいと思い始めた。

「これはね、お話を書こうとしてるんだよ。僕はもともと、お話を書くのが仕事だったんだ」
 彼が卓上の、一際古びたノートを指さした。小学生らしい、力の入ったたどたどしい字で書かれたお伽話である。
 鬼退治に行ってみたら実は鬼が超いい奴で…というところから始まる、まあ贔屓目に見てもありふれたお話で、途中までしかない。ここからわずかでも良きものを見つけ出し、読むに堪える物語にし、そして何よりも完結させること。それが、今の自分の目標である。

 一段落したところで見ると、彼が絵本を抱えてこちらを見ている。手招きして抱き上げると、『ピーターラビットのおはなし』だった。絵を見るのが好きだから、少し時間がかかりそうだ。ゆっくり読み終えると、彼は嬉しそうに笑ってくれた。
 そして今度はあひるをご所望らしい。

 十年前、家族が事故に遭った。
 五年間、裁判で争った。
 こういったケースとしては破格の金が支払われたが、自分はどこかが壊れてしまい、何もできなくなった。それから五年、何も書いていない。

 気づくと、彼が子どもらしからぬ顔でこちらを見ていた。
「…君みたいな子は、みんなこうしてどこかのお家にいるのかな」
 彼は側に置かれた絵本を開くと、書かれた文字のいくつかを指さした。
「ど う し た の」
「…君がいてくれてとても嬉しい。ただ、もし会えるなら会いたい子がひとりいるんだ。会えないならせめて、幸せにしていてほしいと思って」
 彼は腕を精一杯伸ばして、頭を撫でてくれた。
「いつか、その子のためにお話を書きたいと思ってたんだ。書き上がったら、一番に読んでくれないかな?」
 彼はあひると一緒に抱きついてきた。

 弟は十年前、八歳で死んだ。
 あのノートのお話は、弟が書いたものである。

10/12/2024, 4:19:43 PM