卑怯な人

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「ラララ」

 ある日のこと、夏休みが明けて生活習慣もいつも通りに戻ったと思えば、定期考査一週間前となっていた。定期考査間近の学校は部活動が禁止されるため、四時頃には生徒の殆どが帰宅し、自分の足音が廊下に響く音だけが聞こえる程に静かだった。いつも大騒ぎしながら廊下で屯している集団も見なくなった。流石に焦って自宅で勉強しているか、はたまたカラオケなどで遊んでいるかの二択だろう。兎も角、静寂に包まれた学校は、どこか特別感があった。
 では、静寂に包まれた学校に何故自分かいるのか。
理由はシンプルで、図書室の自習室を利用していたからだ。一度自習室に入れば、必死に勉強している周りの生徒に触発され、勉強のモチベーションが上がる。そして何より、なんの雑念も無い。もし家に帰ってしまったら、テレビだの漫画だのゲームだの誘惑に飲み込まれてしまう。テスト前の学生にとって自習室は避難所である。
 今日ももれなく自習室で勉強をしていたが、今日は親が夜遅くまで帰って来ないので、自分で支度をしなければいけない。そそくさと帰りの支度を済ませて、自習室、そして図書室を後にする。いつも校庭から聞こえる運動部員たちの声は聞こえない。学校はたちまち人が居なくなれば、暖かみを失った無機質な空間に成り果てる。そんな校内を珍しいものを見るように歩いていた。
 そんな中、ふと「ラララ」と、誰かが歌っている声が聞こえた。自習室以外で校舎に残っているのは以外で、どんな人なのか少しばかり興味が湧いてきた。そのまま、導かれるように声のする教室へ向かった。
 目的の教室が目の前に差し掛かった時、教室の扉が開いていることに気づき、少しだけ教室内を外から覗いて見た。オレンジ色に輝く光が教室の中に差し込み、どこか悲しげな雰囲気を醸し出している。その中で、一人の女子生徒が歌を歌っていた。特に歌詞は無く、メロディーだけを口ずさんでいるだけ。自分はそれを見て、鳥籠の中にいる鳥を連想した。しかし、歌っている彼女は心の底から未来に期待しているような顔を夕日に向けていた。
 一瞬、その女子生徒と目が合った。相手が少し驚いたものの、直ぐに先程の表情に戻り「こんにちは」と、自分に挨拶をした。自分も若干動揺しながらも挨拶を返す。少し間が空き、気まずい雰囲気になってしまっが、先にその静寂を破ったのは彼女の方からだった。

「どうして、教室の前で立ち止まってたの?」

「帰り際、誰かが歌う声が聞こえて気にたっただけだ」

 二人の間でぎこちない会話が続けられる。しかし、話していく度に気分は上がりたわいもない世間話に発展していた。そのような感じで話している中で気になってきたことが一つ。

「さっきまで歌ってた曲って、何なんだ?」

さらっと自分は聞いてみた。そして彼女はこう答えた。

「わかんない。聞いたのは結構昔のことだから。」

 彼女はあっけらかんと経緯を話した。彼女は淡々と話をしていたが、少しだけ彼女の顔が曇っているように感じて、聞いてはいけないものを聞いてしまったと、少し後悔しながら話を聞いていた。

「お母さんにもこの曲について聞いたことがあるんだけどね、この曲は私のお父さんが生前お気に入りだった曲みたいで、だから結構な頻度で聞いていて、それで私も覚えちゃったんじゃないかってね」

「好きなのか?その曲」

「もちろん。嫌いだったら歌わないよ」

 懐かしそうに、大事なものを扱うように、彼女は話を続けていた。彼女の話によると、彼女の父は自分の娘が小学校に上がる姿を見られずに亡くなったらしく、その事を相当悔やんでいたらしい。私は聞いた事を謝った。しかし、彼女は気にしていないと言って、謝る必要はないと自分を気遣ってくれた。本当に申し訳なく感じたのは久々である。そして、彼女は続けて

「それに、この歌を歌っているとあの頃を鮮明に思い出せる。数少ないお父さんとの思い出も、何もかも。
だから、夕方になったら歌うの。もしかしたら、何も無かったみたいにお父さんが帰ってきて、あの頃の続きを見れるかもしれないから」

 穏やかな笑顔で、彼女は語っていた。それを見て自分は何も言えなかった。なぜなら、現に今、彼女は数少ない父との時間を過ごしているように見えたから。

「だから歌が好き。懐かしい人とまた会えるから」

 そう言って、彼女は紫に色を変えつつある空を見上げた。自分も彼女も空を見て感傷に浸っている。その時の教室は、まるで時が止まったかのように静かで美しかった。
 そして、最終下校を告げるチャイムが鳴り、彼女は急いで帰りの支度をし始めた。そうして彼女は別れの挨拶をして帰って行った。
 自分も下駄箱で靴に履き替えて駐輪場へ向かった。残った自転車は片手で数えられる程度で、一日の終わりを改めて感じながらも校門を出て、自宅へと向かう。その道中で、ずっと彼女の言葉が自分の頭の中で響いていた。

     "あの頃の続きを見れるかもしれない"

 甘く、残酷な言葉だった。夢では見れるが現実では絶対に起きることの無い願いを彼女は背負っている。そして、おそらく彼女は一生背負い続けて生きていくのだろう。彼女の願いは夢で止まってしまったのだ。


                   了



3/7/2025, 2:55:04 PM